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第6話
決意を固めた日から数年が経った。
少しずつ外への散歩も、新しく就職した会社へ通勤も悪夢に魘され、暴れまわることも少なくなった。
この数年の間、雪を散歩に連れ出してあげることも
ろくにできないまま、、…雪を見送ってしまったことだけが胸を重く伸し掛かる。
それでも、3人だけの家族で穏やかな食卓を囲む。
夜中に木の葉が揺れ、外壁へ擦れる音に怯え、
不安で眠れないまま、枕元に置いた懐中電灯を持ち、ポケットナイフを片手に徘徊する眠れない日々に、到底、…耐えきれなかった。
情けなく震える手で首を吊ろう、と梁へロープをかけ、ぐるぐる回る視界のなか、父に降ろされた日や悪夢を見て、掻きむしった全身が血塗れに染まり
母から泣きながら手当てされた日もあった。
今は、、どうにか、息をすることが出来ている。
新しく入った会社で、周囲から人から付き合いが悪いと言われようと、後ろ指をさされ、どんな嫌がらせをされようが、すべて、どうでも良かった。
むしろ、あの男からの仕打ちに比べれば微笑ましく、子供の悪戯のようだ。
そんなことを考えながらも、呼び出された部屋へ向かい、椅子に腰掛ける部長と挨拶を交わす。
「実は君に頼みたいことというのは、
新しく契約する商品内容の取引先と商談を君に
任せたい。
そこで、日帰りにはなるがここへ」
渡された新幹線のチケットへ書かれた街の名前に
眉を顰める。
幸い、あの男が拠点として暮らしている場所からは遠い。
もう、何年も経ち音沙汰もない…。
あの男も諦めて探してはいないだろう、いけないことはない。
それに、ようやく、ありついた職だ、…手放すには惜しい。
「承知いたしました」
渡された書類を鞄へしまい、扉を潜る。
「ありがとう。」
明るい声とは裏腹に、両手を組んで俯く部長に首を
傾げながら部屋を退出し、残った仕事を終わらせていく。
退社し電車を降りたあとは、畑や小川の橋を踏み締め、両親の待つ家へと歩き出す。
「ただいま」
帰宅した瞬間、強張った身体から力が抜けていく。
のろのろ、靴を脱ぎ捨て扉を潜る。
「おかえり。今日はあんたの好きなものだよ」
快活な笑顔の母に帰宅の挨拶と礼を言い、椅子に腰掛ける。
懐かしい匂いに温かい湯気を立ち昇らせる筑前煮に
前に食べた日付を思い起こす。
「今日も一日よく頑張ったなぁ。ほれ」
穏やか笑みを浮かべた父から人肌ほどの湯呑みを
受け取って箸を持つ。
ただテレビの賑やかな音だけが部屋に響く。
鏡の取り外された浴室は、身体の模様を見なくて済む。
白檀の入浴剤で、白濁りした水面へ足先を付け、
瞼を閉じ真っ暗な視界のまま、湯船に浸かる。
自身の部屋の照明を付け、取り出した真っ白な便箋に筆を取る。
自分が居なくなっても決して捜さないこと、
お金の場所や日々の感謝をただ、書き込んでいく。
家を出るたび、新しく書いた手紙が読まれることなく、何枚も積み重なりずっしりと埃をかぶる。
万が一を常に考え、…片時も安心できなくなってしまった。
保険に保険を重ね、枕に頭を載せ明日に備える。
差し込んだ朝の日差しに、聞こえてくる雀たちの鳴き声を聞きながら、身だしなみを整え
る。
朝食を済ませ鞄を持ち、ようやく見えた新幹線へ乗り込んだ。
渡された住所を訪ね、案内された部屋で商品を確認し、長時間の話し合いの末、纏まった商談内容を
部長へ送る。
視界に飛び込んだ通り過ぎる人々に腕を押さえ、
俯きながら、足早に新幹線へ向かう。
カラフルな笑みを浮かべたかぼちゃ、種類の豊富な小物…。
季節を象徴する限定の衣装が、視界へ飛び込むたび、吐き気に寒気がとまらない。
よりにもよって、ハロウィンとは、知らなかった。
心臓がうるさく音を立て、伝っていく汗に、震えが収まらない。
道を塞ぐ人や時折、ぶつかる人へ謝罪をしながら駅に縺れそうな足を動かし走る。
そのまま入り口を勢いよく潜ろうとした瞬間、
誰かにぶつかり謝罪して、横を通り抜けていく。
突然、腕を掴まれ思わず振り返った先で、
「あなた、!
ーあぁ、、やったわ」
顔をじろじろと無遠慮に見つめ、興奮した様子で、喜ぶ女から握られたままの腕を振り払おうとするが、細い腕に反した強い力に解けない。
駅の出入り口を塞ぎ、立ち止まったまま時間だけが過ぎていく。
迷惑そうに横を通り過ぎていく通行人の顔もまともに見ることもできない。
冗談じゃない、はやくこの街から離れたいというのに、。
怪訝な表情を浮かべ駆け寄ってくる駅員に助けを求め、腕を掴んだまま、
「これで、、あの人に…!」
「ちょっとお姉さん。
お兄さん、困ってるから離そっか、ねっ?」
ぶつぶつ呟き、繰り返す女の腕を引き剥がしてもらい乗り場へ急ぐ。
ろくに手入れのされていない艶のない髪に、充血した目、痙攣していたぼろぼろの手…。
それに、あの喜びよう、…まさかな。
新幹線へ乗り込むため足を踏み出す。
瞬間、据えた臭いが鼻に届く。
誰かに力強く首根っこを掴まれ、腰を後ろへ打ち付け、無情にも閉じっていった扉へ伸ばしていた手を引っ込めて身体を起こす。
「よぉ…。
ー久しぶりだな、…俺だよ。」
歯が抜け落ちた隙間だらけの黄ばんだ口に、
かろうじて頭に載っているカツラだけが、浮いて見える。
随分、姿は変わってしまったが、どこか見覚えのある顔をじっと見つめ、ようやく思い出した。
自分を地獄へ突き落としたあの先輩だ。
まだ、生きていたのか…。
「お前さえ、…差し出せば…!
また、家族と、暮らすことができるんだ」
爛々と嫌になる光を目に宿し、狂ったように笑い、汚れた手を伸ばす先輩の頭を鞄で払い、かつらを宙に吹き飛ばす。
すぐさまカツラへ手を伸ばす先輩よりも先に、拾ったヅラを遠くへ放り投げ、騒ぎに駆け付けてきた駅員に、
「申し訳ない、あの人の落とし物が、線路へ入ってしまった。
助けて上げてください」
通り過ぎざまに声をかけ、早足で駅から出る。
必死に走るさなか、見覚えのあるいつかの少年の姿を見かたが、
声をかけることなくなく走り続け、新しく新幹線のチケットを用意を済ませた。
人が多く集まっている公園のトイレへ駆け込み、
スーツを脱ぎ持ち、歩いている私服へ着替え、
帽子とマスクを着用し外へ出る。
予約した駅を目指しながら、少しでも近付いてくる人間を警戒し、怪しまれないようにゆっくり足を踏み出す。
時折、見かける草臥れたスーツや派手な衣装で、スマホを片手にうろうろと道行く人の顔を覗き込む。誰かをを探す人間たちをそっと避け、新幹線へ乗り込み席に座る。
ーあぁ、良かった。…誰もいない。
まさか、まだ、男が自分を探しているとは…、信じられないが、、。
この街から、また逃げ出せたんだ。
きっと…もう、大丈夫だ。
流れ行く風景を眺めることなく、椅子に深く腰掛け鞄を両手で抱える。
新幹線から降りたあとは疲れ切った身体で両親の待つ家へと向かう。
頼まれていたお土産を買えなかった。
肩を落とす母に、頭へよぎった人気のお菓子を思い浮かべ、人気と書かれた商品を手に取り購入する。
見慣れた家が立ち並び、途中の道で散歩している父へ声をかけ、真っ直ぐ歩く。
家の前で停められている見覚えのない車に、サングラスをつけた運転手に鞄を握り締め、吹き出した汗がとまらない。
「おかえり~!
あんたに、あんな男前なお友達がいるなんて、母ちゃん、知らなかったよ」
笑顔で出迎え声をかけてくる母の肩を掴み、全身を眺め、どこにも怪我がないことに胸を撫で下ろす。
「…母さん。
友達、と2人だけで、話したいことがあるんだ。
だから、父さんと少しの間、畑を見に行ってほしいんだ、お願い」
戸惑う母の小さな身体を強く抱き締め、暖かな温もりに精一杯の嘘をつく。
滲んだ涙が流れないように押し留める。
「え、え、…そう。
母ちゃん、…何が、なんだか分かんないわ。」
取り出した財布を手渡し、母とともに、ここから逃げ出したい思いを殺す。
優しく背中を押し玄関から見送った。
ぎしぎし廊下を踏み歩き、自分の部屋の扉を開け、鍵を閉める。
当然のようにベッドへ腰掛け、ふんぞり返る男に、鞄を振り上げる。
だか、それも呆気なく受け止められ、鞄の中身は、すべて床へ大きな音をたて散らばっていく。
「感動の再会に、このお出迎えは良くないねぇ。
せっかく、ご両親には手を出さないでおこうとしてるのにさぁ。」
頭に染み付いた醜悪な笑みを浮かべる男の胸ぐらを離し、睨みつける。
なぜ、今さら、場所を突き止め姿を見せたのか、
わからないが…、…今度こそ、殺してやる。
「あ~、よしよし。
いやぁ、ほんとにあれは効いたよ?
ゲロゲロ吐いて、あの世には行きかけるしさぁ…。
久しぶりに、とにかく最悪だったねぇ」
男が着ているシャツを捲り上げ、露出された肌には複数の細かい刺し傷の痕跡が覗く。
この男を、何度も刺したのは、やはり現実だった。
「それでぇ、…伝言託したあとは寝込んで、
景品は取られて、お前の行方もわからないまま、
無様に負けてるしさぁ…。」
一番深い傷跡をそろりとなぞりあげる男は、そう言いながらも愉しげに笑う。
きっと負けたことすら、この男にとっては遊びなのだ、冗談じゃない。
「だから、負けたハンデとして、自分では捜さないことをルールにした。
ここまで言えば、どうして、今まで見つからなかったのか。
もう、分かるよねぇ」
腰掛けたまま、見上げてくる男の瞳は冷え切っている。
たしかにこの男が本気を出せば、あの街から逃げ延びることすらできなかった。
…この数年間、自分たちの周囲をうろつく者もいない、平和な日々だったというのに。
それならば…、なぜ、ここに、目の前にいる。
「ルールを破る訳にもいかなくて苛々する日々も
あの部長さんのおかげで終わり。
ざぁんねんでしたぁ。
まぁた、人に売られちゃって可哀想だねぇ」
「どうして、、そこまで執着する…!
代わりなら、いくらでも、いるだろ。
勝ったんだ、…だから、…もう放っておいてくれ」
湧き上がる感情についていけない身体から涙が溢れていく、無様な顔を男から両手で覆い隠し膝をつく。
また、まただ、…なにを間違えた。
なぜいつも、こうなんだ。
どうして、ここまで追いかけてくる…?
「勘違いするな。決めるのはオレだ。
あ~、かわいそうにねぇ。よし、よし」
両手を顔から剥ぎ取られ、覗き込む愉悦に満ちた男は、この世でもっとも恐ろしいのに、とても美しく感じてしまい、頭が可笑しくなりそうだ。
いま、この瞬間も逃げようとする思考すらも、鷲掴みにされ、覗き込まれている。
ーあぁ、…恐ろしい…。
煮詰めた砂糖のような甘ったるい声も、暴力など振るったことなどないような優しい手つきで、流れる涙を拭うことが、どうして、できる。
こんなにも、優しく触れるくせに。
どうして、…あんな、酷いことが平気で行える。
「お前の代わりなんて、いないんだよ。
これからも、ずぅっと2人で楽しくやろう」
耳の奥まで入り込むどろついた声が、こべりつく。
「ー無理だ。
もう、…いやだ、見逃してほしい。
どうかお願い、します。許してください。」
男の足に縋り付き、頭を冷たく硬い床へこすりつけ、慈悲をひたすら乞い願う。
いやだ、、いやだ。
あんなこと、…もう、耐えられない。
自分のことを手放してほしい。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
しかし、この男を手に掛けたところで、もう、どこにも逃げ切れない。
いったい、どうすればいいんだ。
だれか、代わってくれ。
「ん〜、それは無理。
あぁ、それともご両親も一緒が良いの?
それなら、しょうがないねぇ、家族で行こうか。」
自分の首根っこを持ち上げ、身体を引き摺っていかれるさなか、はっきり耳に入ってきた言葉に、
暴れまわっていた動きを止め、身体の上で両手で、組み、祈るように涙や鼻水に濡れた顔で男を見上げる。
「ごめん、なさい。
父と母には、関わらないでください。
おねがい、、…お願い、します。」
足を止め見下ろす男に何度も枯れた声を絞り出し、
頼み込む。
耐えられない、あんな目に遭うのは自分だけで、
充分だ。
「心配しなくても、お前が死んだりしなかったら、ご両親には、手出ししないからさぁ…。
もちろん、お利口にできるよねぇ…?」
じっとり、熱を孕んだ気持ち悪い目が弧を描く。
死んで逃げることも、許されないまま、ただ必死に男の言葉に頷く。
そのまま、ずるずると引き摺られ、開かれた車の座席へ放り投げられ扉は無慈悲な音を立て、閉じられた。
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