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第三話:弓削「充満する甘い匂い」

男が転落していた場所へ行き来するには、随分と大回りをしなくてはならなかった。 結局、眠っている彼を背負い、四十分近く歩いて、家へ連れ帰る。 Ωが放つ、甘く淫靡な匂いは、確実に彼が発信源で、それを自分の家に招き入れることに抵抗があったが、他に方法はなかった。 いや、すでに四十分以上、近距離でその匂いを浴び、今更だというのも一理ある……。 家に入り、リビングのソファへ小柄な男を下ろす。 うつらうつらと眠り続けていた彼は、挫いた足が床にあたったのか、「痛っ」と小さな悲鳴を上げて目を覚ました。 「悪かった。大丈夫か?」 「だ、大丈夫です」 「痛めたほうの靴を、脱がせてもいいか?」 「は、はい。お願いします」 私は丁寧に靴紐をほどき、できるだけ痛みが伴わないように脱がしてやる。 「かなり腫れているな。少し触るぞ」 男を正面からきちんと見ると、整った可愛らしい顔をしていたが、よほど痛いのか、その表情は歪んでいた。 「捻挫だろうな。折れてはいないと思う。そうだこれ、君が持っていたカメラだ。荷物はこれしか見当たらなかったが、よかったか?」 「あ、ありがとうございます。リュックは枝に引っかかってしまって……。でも、このカメラを失わなかったのは、本当に助かります。あ、あの、僕は羽田ルカと言います」 「あぁ、名乗ってなかったな。私は弓削だ。この家に一人で暮らしている」 「一人で……」 ルカは物珍しそうに部屋の中を見渡していた。 「足が痛いところすまないが、すぐに風呂の支度をするから湯に浸かってほしい。着替えは、全て私のものを貸す。今着ているものは洗濯をさせてくれ。その間に簡単な食事を作るから、それを食べ鎮痛剤を飲みなさい」 唐突に風呂に入れというのは、不自然だっただろうか。 しかし、ルカが放つ匂いを少しでも和らげたく、そのように指示を出す。 彼は、コクリコクリと頷いて、立ち上がるが、バスルームまで歩くこともままならない。 肩を貸し、なんとかバスルームへ連れていき、脱衣所にも、洗い場にも椅子を用意してやる。 「お手数おかけします」 ペコリと頭を下げた彼に「ゆっくりでいいから」と声をかけ、私は自室へと向かった。 そして着ているものを全て脱ぎ、クローゼットから出したものに着替える。 しかし、こんなことをしても無駄だったと、すぐに気がついた。 もう家中が、ルカの甘く淫靡な匂いで充満しているのだ。 ただ、目に見えないΩの存在に、おかしな妄想が膨らんでしまう状況よりは、ずっといい気もする。 足を怪我したΩを、静養のために家に置いてやるだけ。 例え彼が、可愛らしい顔をしていても、それだけのことなのだと、自分に言い聞かせればいい。 幼い頃から自分の中にある、Ωへの愛着心、Ωへの庇護欲、Ωへの慈しみは、度を越えなければトラブルを招かないはずだから……。 彼のために、クリームシチューを作り始めて、ふと気が付く。 ルカはリュックを紛失したと言っていた。 抑制剤はポケットなどに入れ、持っているのだろうか? それともまさか、リュックの中? 第二の性に関することは、とてもセンシティブで直接本人に確かめるわけにも、いかない……。 — ガシャン。 大きな音がした。 鍋の火を止め、慌てて脱衣所へ向かうと、バスルームの扉にもたれ掛かって、裸のルカが倒れている。 「ごめんなさい、躓いただけなんです」 すまなそうにそう言った彼を、私は自分のバスローブで包み込む。 外からは雨が降り始めた音が、聞こえてきた。

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