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第四話:ルカ「戸惑いの芽生え」

脱衣所で転び、裸を晒してしまった僕に、弓削さんは怒ったような顔で手を差し伸べてくれた。 そして、ホカホカと湯気の上がる僕の身体を、大きすぎるバスローブで包んでくれる。 身体も髪も、よく洗ったつもりだ。 谷に落ちたとき泥がついたり、冷や汗を掻いて汗臭かったりしたのではないかと、さっきの弓削さんの態度を見て、気がついたから。 弓削さんは、黙って僕を見下ろしている。 そして、大きな深い溜息をついた。 「ルカ。鏡を見てごらん」 脱衣所には、全身が映る鏡があり、そちらに身体を向ける。 風呂上がりで、ほっぺも鼻の頭も唇も赤くなった、血色のいい僕が映っていた。 「助けていただいて、本当に助かりました。ようやく全身に血が巡った気がします」 「いや、その分、足が痛むだろう。本当は温めずに冷やすべきだったかもしれない。申し訳ない」 「いえ!こんな綺麗な家で休ませていただくのですから、清潔にしないとご迷惑を掛けます」 弓削さんはもう一度大きく溜息をついてから、僕を椅子に座らせ、髪の毛をタオルで拭いてくれた。 「ルカ。今から私はとても失礼なことを言うと思う。どうか許してほしい」 「え?」 「実は私は、αなんだ」 α……。 それは僕が普通に生活していたら出会うことのない、優れた資質を持つ、一握りの人。 「私はαの中でも、異常に鼻が利くんだ。血行が良くなった君からは強い甘いΩの匂いが湧きたっている」 そんな……。 僕は、恥ずかしくなってバスローブの襟を両手できつく閉じ、俯く。 「どれくらい鼻がいいかと言ったら、この家の中にいて、君が谷底に蹲っていたことに気がつくくらいだ。すまない、どうか、どうか、怯えないでほしい……」 怯えているのは僕ではなく、弓削さんかのように、紳士的な彼の声が震えている。 「弓削さん?」 「外は雨が降り出した。明日も雨の予報だ。明後日の月曜日の朝、ヘリコプターを手配する。ルカは、それに乗って、この山を降りなさい」 「ヘリコプター……」 「ここにいる間は、私が責任を持って、快適な衣食住を提供する」 どうしてこの人は、こんなにも僕に親切にしてくれるのだろう。 「ここまで言って、こんな交渉を持ちかけるのは、卑怯だと重々承知している。それでも、言わせてほしい。君を、君を抱きしめてもいいだろうか。その堪らなく甘い匂いを、ここにいる間に、何度か直接、吸わせてほしいんだ。それ以上のことは、決してしないと……約束するから」 驚いた僕は、上手く返事が出来なかった。 「これは脅しではなく、私は自分が暴走してしまうのが、恐ろしい。だから、そっとルカを抱きしめ、程よくその感情を逃がしたい。その先の自分を律することには、長けているつもりだから。どうか、頼む」 深々と頭を下げた弓削さんに、僕は慌てる。 幼い頃から、他人との身体的接触は避けてきたけれど、こんなに親切にしてくれる人の申し出を断るわけには、いかない。 「いえ、あの、そんなことでよかったら……。そうすることに、意味があるのなら……」 僕の言葉に、弓削さんは、床に膝をつく。 そして、椅子に座る僕を、大きな両手で抱えるように、抱きしめてくれた。 僕の首元に顔を埋め、大きく息を吸い込むように、彼は匂いを吸い込む。 その行為は堪らなく恥ずかしくて。 でも、とても温かく、不思議と僕も満たされていく。 いや、それだけじゃなかった……。 僕の心の中にあった種みたいなものが、たった今、小さな芽を出したことを、はっきりと自覚してしまう。 身体が熱く、ぽーっとしてきて、今までに味わったことのないソワソワした気分になる。 「ありがとう、ルカ。私はとても満たされた気持ちになれたよ」 そう言って、僕を抱きしめる手を解いた弓削さんは、さっきより落ち着いたようだ。 ヘアクリームを僕の髪につけ、ドライヤーで丁寧に乾かしてくれた。 そして、僕が着替えやすいように、貸し出し用の部屋着を並べてくれる。 「着替えたら、声をかけて。ゆっくりでいいよ。私はシチューを仕上げてくるから」 甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼に、僕は、さっきよりも戸惑いを感じていた。

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