3 / 39

第3話

悠はそのことを口にしなかった。 でもそれは、気づいていないという意味ではない。分かっているけれど、名付けていない。そう…張り詰めた状態。 朝、支度をしていると、悠が珍しく僕のネクタイを直した。 「曲がってる」 短い一言。 触れたのは、指先だけ。けれど、必要以上に近づかない悠が、触れてきた。それなのに、その必要性が、以前より曖昧になっている。 「ありがとう」 そう言うと、悠は頷くだけで、すぐに離れた。離れるのが、早い。そのことに、気づいてしまう。 「今日は、遅くなる」 「仕事?」 「まあな」 気だるい返事。今までなら、気にしなかった。でも、今日は、胸の奥が少しだけざわつく。 「……何時頃?」 自分から、聞いてしまう。 悠は、一瞬だけ僕を見る。驚いた顔じゃない。はかる目。 「分からない」 それだけ言い、靴を履く。かかとを床に落とす音が、いつもより少しだけ強い。逃げないけど、答えない。その態度に、ひっかかりが残る。 夜、帰宅した悠は、いつもより静かだった。 疲れているわけでも、不機嫌なわけでもない。ただ、言葉が少ない。 「おかえり」 「ただいま」 それだけ。 キッチンに立つ僕の背中を、一瞬、見ている気配がした。でも、何も言わない。夕食中、悠は、スマートフォンを伏せている。 以前は、仕事の連絡が来れば、すぐに確認していたのに。 「……何かあった?」 つい、聞いてしまう。 「いや」 即答。でも、目は合わない。 隠している、というより、触れないようにしている。 「父さんのところ、最近よく行くな」 食後、唐突に言われた。 声は、淡々としている。責める調子じゃない。でも、雑談でもない。 「そう?」 とぼけた返事をしてしまう。 「用事があるなら、いいけど」 「用事ってほどじゃないよ」 嘘ではない。でも、正確でもない。悠は、そのずれを感じ取る。一瞬、黙る。 「……そうか」 それだけ。でも、その沈黙が、重い。 ベッドに入っても、悠は、すぐに眠らなかった。 背中を向けているのに、起きている。呼吸が、整っていない。 「……悠?」 小さく呼ぶ。 「なに」 返事はある。でも、振り返らない。 「……最近、僕、変かな」 遠回りな問い。悠は、少しだけ間を置いて答える。 「変、じゃない」 否定。でも、肯定もしない。 「ただ」 続けかけて、止める。 「……いや」 言葉を飲み込む。ここだ。言葉になる直前。 その気配が、空気を張り詰めさせる。 悠がシーツを掴む。けれど、それをすぐにほどく。 悠はそれきり動かない。止めた言葉だけが、部屋に残っている。 僕は、その優しさが、淋しい。 秋頼のことに触れて欲しい。そうすれば、否定できる。責めてくれれば、謝れる。でも、言わない。 ——見てほしい。 ——気づいてほしい。 ——止めてほしい。 矛盾した願いが、胸の奥で絡まる。悠の背中を見つめながら思う。 この人は、僕を信じている。でも、欲しがることとは、同じではない。 その差が、今、はっきりと形になり始めている。 天井を見つめる。眠れない。悠も、同じだ。 二人とも、同じ夜を過ごしているのに、同じ場所にはいない。違和感は、もう、ここにある。 あとは、誰が、言葉にするか。それだけだった。

ともだちにシェアしよう!