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第3話
悠はそのことを口にしなかった。
でもそれは、気づいていないという意味ではない。分かっているけれど、名付けていない。そう…張り詰めた状態。
朝、支度をしていると、悠が珍しく僕のネクタイを直した。
「曲がってる」
短い一言。
触れたのは、指先だけ。けれど、必要以上に近づかない悠が、触れてきた。それなのに、その必要性が、以前より曖昧になっている。
「ありがとう」
そう言うと、悠は頷くだけで、すぐに離れた。離れるのが、早い。そのことに、気づいてしまう。
「今日は、遅くなる」
「仕事?」
「まあな」
気だるい返事。今までなら、気にしなかった。でも、今日は、胸の奥が少しだけざわつく。
「……何時頃?」
自分から、聞いてしまう。
悠は、一瞬だけ僕を見る。驚いた顔じゃない。はかる目。
「分からない」
それだけ言い、靴を履く。かかとを床に落とす音が、いつもより少しだけ強い。逃げないけど、答えない。その態度に、ひっかかりが残る。
夜、帰宅した悠は、いつもより静かだった。
疲れているわけでも、不機嫌なわけでもない。ただ、言葉が少ない。
「おかえり」
「ただいま」
それだけ。
キッチンに立つ僕の背中を、一瞬、見ている気配がした。でも、何も言わない。夕食中、悠は、スマートフォンを伏せている。
以前は、仕事の連絡が来れば、すぐに確認していたのに。
「……何かあった?」
つい、聞いてしまう。
「いや」
即答。でも、目は合わない。
隠している、というより、触れないようにしている。
「父さんのところ、最近よく行くな」
食後、唐突に言われた。
声は、淡々としている。責める調子じゃない。でも、雑談でもない。
「そう?」
とぼけた返事をしてしまう。
「用事があるなら、いいけど」
「用事ってほどじゃないよ」
嘘ではない。でも、正確でもない。悠は、そのずれを感じ取る。一瞬、黙る。
「……そうか」
それだけ。でも、その沈黙が、重い。
ベッドに入っても、悠は、すぐに眠らなかった。
背中を向けているのに、起きている。呼吸が、整っていない。
「……悠?」
小さく呼ぶ。
「なに」
返事はある。でも、振り返らない。
「……最近、僕、変かな」
遠回りな問い。悠は、少しだけ間を置いて答える。
「変、じゃない」
否定。でも、肯定もしない。
「ただ」
続けかけて、止める。
「……いや」
言葉を飲み込む。ここだ。言葉になる直前。
その気配が、空気を張り詰めさせる。
悠がシーツを掴む。けれど、それをすぐにほどく。
悠はそれきり動かない。止めた言葉だけが、部屋に残っている。
僕は、その優しさが、淋しい。
秋頼のことに触れて欲しい。そうすれば、否定できる。責めてくれれば、謝れる。でも、言わない。
——見てほしい。
——気づいてほしい。
——止めてほしい。
矛盾した願いが、胸の奥で絡まる。悠の背中を見つめながら思う。
この人は、僕を信じている。でも、欲しがることとは、同じではない。
その差が、今、はっきりと形になり始めている。
天井を見つめる。眠れない。悠も、同じだ。
二人とも、同じ夜を過ごしているのに、同じ場所にはいない。違和感は、もう、ここにある。
あとは、誰が、言葉にするか。それだけだった。
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