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第4話

その夜、悠の帰りは遅かった。連絡は、一通だけ。 「今日は遅くなる」 理由は書かれていない。聞いても、返ってこない気がして、スマートフォンを伏せた。聞かないことに、慣れてしまった自分。そのことに胸が締め付けられる。 時計の針が二十一時を回ったころ、玄関の音がした。悠じゃない。その直感は、当たる。 「……絢聖君か」 低く甘い声…秋頼だ。 「こんばんは」 媚びても、張り詰めてもいない。思ったより、普通の声が出た。 「悠は?」 「……まだです」 短い沈黙。彼は、一瞬だけ視線を伏せる。 「少し、悠と話があってな」 「はい」 嘘はつかない。必要以上、言わない。だから、僕も聞かなかった。それだけのこと。踏み込まない。でも、避けもしない。その距離が、胸に残る。 悠が来たのは、それから三十分後だった。 玄関で、二人を見て、一瞬だけ表情が止まる。 「……父さん?」 驚きは、ほとんどない。予想していた顔。それが、すべてを物語っていた。 三人で、テーブルを囲む。湯気の立つカップが三つ。この光景は、どこか不自然なのに、不思議と壊れていない。 「……絢聖、先に寝てていい」 悠が、僕に言う。声は、穏やかだ。拒否じゃない。席を外してほしいという要求。胸が、きゅっと締まる。 「……うん」 頷いて、立ち上がる。廊下へ向かう前、一瞬だけ振り返る。 悠と、秋頼さんの視線が合っている。 同じ方向を見ている目。それが、少し、怖かった。寝室に入っても、眠れない。壁越しに、声は聞こえない。でも、沈黙の気配だけが、伝わってくる。 今、正しさが話されている。その直感が、離れない。 寝室のドアが、かすかに鳴る。寝室に、絢聖を見送れた。それだけで、悠はようやく息をつけた。 リビングに残されたのは、悠と、秋頼。向き合うしかない状況がここにある。 悠は自分の気持ちを落ち着かせるように、視線を一度伏せてから、静かに口を開く。 「……父さん」 呼び方が、いつもより少しだけ低い。 「俺、分からなくなってる」 正直な言葉。回りくどさがない。 「絢聖のこと」 一拍置く。 「信じてる」 それは、きっと嘘じゃない。 「でも、見てない気がして」 ——それを、言葉にしてしまった。 秋頼は、すぐには答えない。 「……信じることと、見ていることは、同じじゃない」 低い声。断定しない。でも、否定もしない。 「俺は、壊したくない」 悠の声が、わずかに震れる。 「絢聖を、自分を。……父さんみたいに、ならないために」 その言葉に、秋頼の眉がわずかに動く。 「私は、壊したのか」 問いではない。確認。悠は、答えない。でも、沈黙が全てを肯定していた。 「正しくあろうとするとき」 秋頼は、ゆっくり言葉を選ぶ。 「人は、欲望を後回しにする」 「それが、間違いだとは言わない」 一拍。 「だが、後回しにしたものは、消えない」 その言葉が、重く落ちる。 「俺は……」 悠は、拳を膝の上で握る。 「絢聖を、依存させられた」 「でも、しなかった」 「それが、正しいと思った」 ——正しい。 秋頼は、頷く。 「正しい」 否定しない。 「だが」 続ける。 「その正しさが、相手にとって十分かどうかは、別だ」 その瞬間、悠は、理解してしまう。答えを、求めて来たのではない。確認しに来たのだ。自分が、間違っていないか。壊していないか。 「……俺は、どうすればいい」 初めて、弱音に近い声。秋頼は、一瞬、目を閉じる。そして、答える。 「選べ」 短く。 「選び、逃げるな」 それは、助言であり、警告。 そのあと、沈黙が落ちる。寝室から、僅かに擦れる音が僅かに聞こえた。 その言葉を、寝室の僕は知らない。でも、何かが決まってしまった感覚だけが胸に残る。 正しさが、一歩、進んだ夜。それが、誰を救って、誰を追い詰めるのか。まだ、誰も分かっていなかった。

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