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第5話

秋頼は、その夜、眠れなかった。理由は、分かりきっている。 「選べ。逃げるな」 自分で言ったその言葉が、胸の奥で、何度も反芻される。 私は、選ぶことに慣れすぎている。選び、引き受け、後悔しない。それが、自分の人生だった。 だが今、その選択が、誰かを追い詰めている可能性を、初めて突きつけられた。 絢聖君。 名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がざわつく。 これは、情だ。同情ではない。欲望だ。 その区別が、はっきりしてしまったことが、一番の問題だった。 私は、距離を取るべきだと分かっている。息子の恋人。いや、もう、それだけではない。 三人の関係は、すでに正しさの枠からはみ出し始めている。 だから、離れなければならない。 頭では、そう結論づけている。スマートフォンを手に取る。液晶は、暗い。連絡先は、すぐに開ける。……だが、送らない。送らないという選択。それが、これまでの私だった。 しかし、今回は指が止まらない。 指先が、画面を勝手になぞる。指の腹がガラスに張り付く。そのとき、メッセージが届いた。短い。 「今日は、ありがとうございました」 送り主は、絢聖。 揺らしてきたのは、彼ではない。 揺れているのは、私だ。その事実が、胸に落ちる。私は、深く息を吸い、返信を打つ。 「無理はするな」 それだけ。境界線を守ったつもりの言葉。 だが、すぐに後悔する。それは、心配だ。距離ではない。 私は、立ち上がる。部屋の灯りをすべて消し、暗闇の中に身を置く。 距離を取る。今夜から、会わない。連絡もしない。 その決意を、言葉にする。だが、言葉にした瞬間、その決意が脆いことも分かってしまう。時計を見る。夜は、まだ長い。 ——今、彼は眠れているだろうか。 ——悠は、どう思っているだろうか。 考えてはいけない。けれど、問いが、次々と浮かぶ。選ぶという行為は、いつも孤独だ。 だが、今回は違う。選ばないという選択が、もっとも卑怯に思えてしまう。それが、私を追い詰める。 離れようとして、何も断ち切れていない。その事実を明らかにしてしまう。 夜明け前、私は、一つだけ理解する。 ——もう、完全に安全な距離には戻れない。  ——踏み込むか、引き受けるか。 その二択しか、残っていない。 中途半端な正しさが、一番、人を壊す。 それを、よく知っているはずの自分が、今、その渦中にいる。 カーテンの隙間から、薄い光が差し込む。朝が来る。何も決まっていないのに、時間だけが進んでいく。 私は、椅子に座ったまま、動けずにいる。 スマートフォンを裏返し、視界に入らないようにする。 離れようとして、失敗した夜。それが、静かに、終わった。

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