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第6話
それに気づいたのは、何か大きな出来事があったからじゃない。
むしろ、あまりにも些細な瞬間だった。朝、悠がネクタイを選びながら鏡の前に立っている。
「どっちがいいと思う?」
珍しく、僕に聞いた。
「……そっち」
指差したのは、少しだけ色の濃い方。悠は、結び目を指で整えながら、一瞬迷う素振りを見せてから頷いた。
「じゃあ、これでいく」
それだけ。でも、胸が、微かにざわついた。
——選ばれた。
——でも、欲しがられてはいない。
その差が、指先の温度みたいに残る。
「今日、父さんのところ寄る?」
悠が、靴を履きながら何気なく聞く。
「……うん」
返事をする間が、ほんの少し遅れた。悠は、
それを、逃さなかった。けれど、何も言わない。
言わないという選択。それが、もう、優しさじゃない気がしてしまう。
昼間、秋頼から短い連絡が来た。
「体調はどうだ?」
それだけ。心配でも、命令でもない。ただの確認。
「大丈夫です」
そう返す。それだけで、胸の奥が落ち着く。
揺らさなくても、見られている。その感覚が、僕を甘やかす。
夕方、いつもより早く悠は帰宅した。
「今日は早いね」
「少し、切り上げた」
理由を説明してくれない。でも、視線が僕を追っている。冷蔵庫を開けるとき、皿を運ぶとき、ふと顔をあげると、悠と目が合う。
夕食のあと、僕は、無意識にスマートフォンを手に取った。
秋頼とのやり取りを、開く。画面を見ているだけ。何も、送らない。でも、その瞬間。
「……誰と?」
悠の声。穏やかだけど、逃げ道のない問い。
「え?」
わざと聞き返す。
「スマホ」
短い言葉。淡白だけど、逃がさない。
「……秋頼さん」
正直に答える。
嘘をつく理由はない。悠は、一瞬だけ目を伏せる。ほんの一瞬。でも、それで十分だった。
伏せた瞼が僅かに震えた気がする。その沈黙が、僕に確信を与える。悠は、何も言わない。でも、空気が変わった。
「風呂、先入る」
短く言って、立ち上がる。その背中が、少しだけ硬い。嫉妬だ。淡白なままの、嫉妬。それを、初めてはっきり見る。胸が、締めつけられる。同時に、熱くなる。
——見てる。
——僕のことを、ちゃんと。
その事実が、嬉しい。そして、怖い。
浴室から水音がする。僕は、ソファに座ったまま、動けない。今なら、引き返せる。何もなかったことにできる。でも、しない。
なぜなら、もう、味を知ってしまったから。
揺らしたときに生まれる、熱。
存在が触れられた感覚。それが、生きている実感だった。秋頼の顔が、ふと浮かぶ。
あの人は、この揺れをどう受け取るだろう。
止めるだろうか。距離を取るだろうか。
たぶん、しない。その確信が、どこかにある。
浴室の扉が開く音。悠が出てくる。
「……絢聖」
呼びかける声が、いつもより低い。
「なに?」
平静を装う。
悠は、少しだけ近づく。でも、触れない。
「最近さ」
言いかけて、止める。そして、言わない。言葉にしないことで、現実を保とうとする。それが、悠のやり方。
その夜、僕は、眠れなかった。悠も、眠っていない。また今夜も、二人で、同じ天井を見つめている。
戻れない場所へ、もう足がかかっている。
その感覚だけが、確かに残っていた。
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