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第7話
それは、復讐でも、挑発でもなかった。ましてや、計画なんて呼べるものじゃない。
ただ、抑えられなかった。それだけ。
朝、支度をしているとき、悠が背後に立った。
距離が、近い。触れそうで、触れない距離。互いの息が、ギリギリ感じられないところで踏みとどまる。
「……早いな」
「うん」
それだけ。でも、その距離を僕は、わざと保った。
一歩、離れない。詰めもしない。逃げもしない。
それが、一番、相手を意識させる。そのことを、もう身体が知っていた。
玄関で、靴を履きながら、何気なく言った。
「今日、秋頼さんから連絡あって」
声は、平坦。意味を含ませないように。悠の動きが、一瞬、止まる。
「……そう」
短い返事。でも、声が少しだけ硬い。喉が小さく鳴り、悠は言葉の続きを飲み込んだ。
「体調、気にしてた」
それだけ付け足す。余計な一言。靴べらを戻す手を、わざとゆっくりにする。
「……父さんは、そういうとこ細かいな」
淡々とした言葉。
でも、それは評価じゃない。距離を取り戻そうとする言い方。それが、分かる。
帰宅を、いつもより遅らせる。連絡はしていない。悠が待っていると分かっている時間を、引き延ばした。
喫茶店に寄り、スクロールだけして、過去のメールを流し読む。文字が滑って、頭に入ってこない。
通知で震えるスマートフォンをポケットの中で握ったまま、取り出さない。
「遅かったな」
悠は、責める声じゃない。でも、視線は、確かに僕を捉えている。
「ごめん」
形だけの謝罪。
「……連絡、欲しかった」
その一言が、胸に刺さる。優しいからこそ、刺さる。
「スマホ、見てなかった」
嘘ではない。
視線を合わせたまま、息を短く吐いて、瞬きを一度だけ遅らせた。
夕食のあと、僕は、ソファーでスマートフォンを触っていた。画面は、わざと伏せない。秋頼からのメッセージは、開いていない。
ただ、そこにあることが分かるように。
悠は、それを見ている。けれど、言わない。
「……絢聖」
悠が呼ぶ。
「なに?」
声は、落ち着いている。
「最近、少し遠い」
言葉を選びながら、責めない、断定しない。
「俺、何かしたか」
それだ。その問いが、一番、欲しかった。
「……してないよ」
即答する。
「悠は、何も悪くない」
本心だ。でも、何も悪くないから、淋しい。その続きが、いつも喉に引っ掛かったまま言えない。
悠は、何か言いたげに口を開き、閉じる。
「……分かった」
それだけ。分かっていないのに、分かったと言う。それが、悠の現実。
その夜、ベッドに入っても、彼は触れてこなかった。
でも、距離は近い。肩が、触れそうで触れない。
その曖昧さが、胸を締めつける。
——キスマークをつけてほしい。
——痕を残してほしい。
——他の誰にも渡さないと示してほしい。
そんな欲求が、喉元まで上がる。でも、言わない。
伝えれば、求める形が命令に変わる。それは欲しいものと違う。
言えば壊れる。けれど、伝えなければ、満たされない。
その二択しかない場所に、もう、立っている。
この天井を見つめながら悩むのは何度目だろう。確かに、自分は当て付けている。
触れないぶん、触れさせたい。見せないぶん、見せたい。
秋頼の声が、ふと思い出される。あの落ち着いた声。揺れを問題にしない距離。あそこでは、当て付ける必要がない。
その差が、はっきりと胸に刻まれてしまう。
小さな行動が、もう、引き返せない方向を指している。
それに、気付いていながら目を閉じた。
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