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第8話

それは、本当に、何でもない夜だった。 特別な理由も、記念日でもない。ただ、秋頼が「よければ夕食を一緒に」と言っただけ。 断る理由は、なかった。 断れば、理由が生まれる。だから、行った。 テーブルには、いつもと変わらない料理。派手さはない。でも、丁寧に整えられている。 「冷めないうちに食べよう」 秋頼の声は、落ち着いている。悠は、「いただきます」と短く言って、箸を取った。 三人とも、普通。少なくとも、表面上は。 会話は、取り留めもない。 仕事の話。天気の話。最近見たニュース。誰も、余計なことを言わない。言わない努力が、ここには満ちている。 その事実が、逆に息苦しい。 「最近、忙しそうだな」 秋頼さんが、悠に言う。 「まあな」 悠は、それ以上説明しない。 「無理はするな」 「分かってる」 親子の会話としては、普通。でも、そのやり取りの間、僕は、何もしていないのに、強く意識されている。 「悠の恋人」であり、「悠の父にとっての他人」 そのどちらでもありすぎる。その立場が、息を詰まらせる。 箸を進めながら、秋頼がふと、僕を見る。 「絢聖君」 呼ばれる。それだけで、背筋が伸びる。 「最近、顔色がいい」 褒め言葉なのか、観察なのか。 「そうですか?」 自分でも分からない。 「よく眠れているか」 その問いに、一瞬、言葉に詰まる。悠が、視線をこちらに向ける。 ——見ている。 「……まあ」 曖昧に笑う。それで、済ませる。 秋頼の目が、僕の「内側」を見ようとしている。 それを、悠が目撃してしまった。悠の箸が一瞬止まる。 「父さん」 悠が、静かに声を出す。 「……何だ」 「絢聖、最近忙しいんだ」 庇ってくれた。でも、線を引く言い方でもある。 触れないでくれ、という合図。秋頼は、一瞬だけ黙る。それから、小さく頷いた。 「そうか」 それ以上、言わない。退いた。その事実が、 胸に重く落ちる。食事は、続く。 味は、分からない。三人とも、黙々と食べる。何でもないはずの食事が、もう、意味を持ってしまっている。 ふと、僕は、口を開いてしまう。 「……秋頼さんのご飯、落ち着きます」 言わなくてもよかった一言。 悠の指が、箸を強く握る。でも、何も言わない。言えない。壊したくないから。秋頼は、一瞬、目を伏せる。それから、静かに言う。 「それは、よかった」 喜びも、誇りも含まない声。距離を取ろうとしているのが分かる。 悠は無言で、空になったお椀の汁をすする。秋頼は視線を落とし、僕は喉の奥が乾く。その乾きが、二人の間を行き来する。 それは、勝利でも、達成感でもない。戻れないと確定した瞬間。食事が終わり、片付けも終わる。 「……そろそろ、帰る」 悠が立ち上がる。 声は、平静。でも、背中が固い。 「絢聖、行くぞ」 命令じゃない。確認でもない。連れ戻す声。 「……うん」 立ち上がりながら、僕は、秋頼を見る。彼は、何も言わない。視線も、合わせない。 それが、一番、重い。 外に出ると、夜風が冷たい。歩きながら、悠は、何も言わない。沈黙が、長い。 「……さっきの」 僕が、言いかける。 「いい」 悠が、遮る。 「今日は、もういい」 それが、一番、辛い。対話を許されていない。部屋に戻っても、会話はない。 シャワーを浴び、ベッドに入る。今日は前から抱き込まれる。いつもより、近い。圧さえ感じる距離。 何でもない夜だったはず。食事をしただけ。 でも、何かが、決定的に変わってしまった。 それを、悠の腕の圧と、秋頼の沈黙、僕の呼吸の浅さが物語っていた。

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