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第10話

その夜、悠は、逃げなかった。逃げれば、楽だった。距離を置いて、時間に任せて、終わったことにしてしまえばいい。 でも、それは、現実じゃない。現実に居続けると決めたのは、自分自身だ。だから、話す。 「……絢聖」 寝室の灯りをつけたまま、悠は言った。声は、低い。落ち着いている。怒っていない。責めてもいない。それが、逆に怖い。 「起きてる?」 「……うん」 悠は、返事を待つように息を止めた。 僕は、体を起こす。逃げ場は、ない。 悠は、ベッドの端に腰掛ける。近い。でも、触れない。 「俺さ」 一拍、息を整える。 「ずっと、正しくいようとしてた」 それは、言い訳じゃない。事実だ。 「壊すのが怖かった…絢聖を、俺自身を」 淡々と言葉が並ぶ。 「依存させることも、できた」 その一言が、胸に刺さる。 ——できた。 分かっていた。 でも、聞きたくなかった。 「でも、しなかった。それは、優しさじゃない」 悠は、はっきり言った。 「怖さだ。絢聖が、俺だけを見てくれるようにすることはできた。でも、それをしたら、絢聖が、絢聖じゃなくなる」 声が、わずかに揺れる。初めてだ。悠が、感情を表に出す。 「俺は、絢聖を好きになった。揺れてるところも、不安なところも、欲しがるところも」 一つずつ、積み重ねるように。 「だから、壊れる未来を選ばなかった」 僕は、何も言えない。反論も、否定もできない。 それが、正しいと分かってしまうから。でも、正しさは、満たしてくれない。その事実も、同時に胸にある。 「……でもさ」 悠は、少しだけ目を伏せる。 「間に合わなかった」 短い言葉。 「俺が、現実で踏ん張ってる間に、絢聖は、別の場所で呼吸してた」 認めてしまった。それが、一番、重い。 「それでも」 悠は、顔を上げる。 「俺は、手を離さない」 言葉に、迷いはない。 「絢聖が揺れるなら、俺は、ここにいる。現実として。それが、俺の選び方だ」 誇りでも、威張りでもない。ただの、決意。 胸が、締めつけられる。 ——こんなこと、言われたら。 ——揺れている自分が、一番、残酷だ。 「……悠」 名前を呼ぶ。声が、震える。 「……ありがとう」 それしか、言えない。 悠は、立ち上がる。そして、触れる。肩に、手を置く。強くない。縛らない。現実の触れ方。それが、悠の精一杯。 その夜、二人は静かに抱き合った。腕の中はあたたかいのに、胸の奥だけが冷えたままだった。 それでも、彼は、手を離さなかった。それが、悠の愛だから。

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