13 / 39
第13話
それは、とても静かで、けれど大きな出来事だった。
雨が降っていた。強くもなく、弱くもない。ただ、外に出るのが億劫になる程度の雨。
「今日は、秋頼さんのところ寄ってくる」
「……うん」
彼は引き留めなかった。想定内…けれど、信じているという圧を感じさせる声だった。
だから、間違えたら、取り返しがつかないのは分かっていた。
秋頼の家は、薄暗かった。
「濡れただろう」
玄関に立った僕を見て、すぐにそう言う。責めない。驚かない。ただ、当然のように気遣う。
「少し、上がりなさい」
命令でも、誘いでもない。拒まないという態度。
それが、胸に沁みる。タオルを差し出される。無言。距離近く、けれど、触れない。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ小さくなる。秋頼は、何も言わない。ただ、頷く。ソファに座る。外の雨音が強くなる。
「悠は?」
「……遅いと思います」
「そうか」
それだけ。
一緒にいる理由を問わない。それが、どれほど救いか。
しばらく、何も話さない。沈黙は、重くない。むしろ、包まれている感覚さえ与えてくれる。
「……最近、眠れているか」
秋頼が、低い声で言う。その問いは、診察でも、確認でもない。揺れを前提にした問い。
「……前よりは」
正直な答え。彼の前では、嘘をつく必要がない。
秋頼は、それ以上聞かない。評価もしない。
「そうか」
それだけで、胸が軽くなる。
雨音が、一瞬、強くなる。僕は、ぽつりと漏らしてしまう。
「……悠は、正しいんです」
唐突な言葉。
でも、止められなかった。
「優しくて、壊さなくて、手を離さなくて…それが、分かるから」
一度、息を吸う。
「淋しい」
声が、震える。秋頼さんは、すぐに何も言わない。答えを急がない。その沈黙が、僕に話をさせる。
「……僕、揺れてるときの方が生きてる感じがして。でも、揺れると、誰かを困らせる。それが、嫌で」
言葉が、溢れる。止まらない。秋頼は、真っ直ぐ僕を見る。逃げない視線。
「……困らせていると思うのは、君だけだ」
低い声。断定でも、慰めでもない。事実として置く言葉。その瞬間、胸の奥で何かがほどける。
——揺れてもいい。
——困らせていない。
それを、初めて信じられる。
「絢聖君」
名前を呼ばれる。丁寧な呼び方。
「私は、君を正そうとは思わない」
「直そうとも思わない」
「ただ、揺れているならそのままでいい」
その言葉は、許可でも、保証でもない…受容。
その瞬間、はっきりと分かってしまった。
——もう、戻れない。
——ここに、傾いている。
大きな感情じゃない。激情でも、恋の宣言でもない。
重心が、ほんの少し移った。でも、その少しが、すべてを変える。
外の雨が、止み始める。帰れる。帰りたくないと感じてしまった、離れたくないと。
「……そろそろ、帰ります」
自分から言う。
秋頼は、頷くだけだった。触れない選択をした。けれど、一線を越えようと、踏み止まろうと、戻れないところまで来ているのは事実だった。
玄関で、靴を履く。背後に、気配。
「気をつけて」
それだけ。
「……はい」
振り返らない。振り返ったら、完全に崩れる。
外に出る。雨は、止んでいた。空気が、少しだけ軽い。でも、胸は重い。
その夜、悠の腕の中で眠りながら、僕は思う。
——もう、戻る場所は一つじゃない。
その自覚が、すべての始まりだった。
ともだちにシェアしよう!

