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第16話
若い頃、手を伸ばさなかった夜があった。
あの日は、今日のように、雨が降っていた。
職場の送別会の帰り。酔っていたわけではない。
理性は、十分に残っていた。
相手は、弱っていた。迷っていて、誰かに決めてほしかった。
あの夜、踏み込めばすべてが変わっていた。それは、理解していた。彼女は、小さく震えていた。
「酔いすぎて…コート店に忘れちゃいました」
誤魔化す態度が痛々しかった。けれど、選ばせる空気。委ねてくる視線。それが、確かにそこにあった。
私は、引き留めなかった。理由は、簡単。
——正しくなかったから。
…違う。
——責任が重すぎたから。
——自分が壊れると感じたから。
——そして何より、その人の人生を奪うと分かっていたから。
「今日は、帰った方がいい」
そう言って、距離を取った。相手は、一瞬だけ傷ついた顔をした。だが、すぐに頷いた。その表情を、私は一生、誇りにしてきた。
——越えなかった。
——正しかった。
そう、信じていた。
その後、私は妻と出会った。穏やかな人だった。
声を荒げず、感情をぶつけてこない。触れ合いも、生活も、すべてが整っていた。
愛は、確かにあった。疑いようもない。愛していたのは事実だ。
だが、燃え上がるように求め合うことは、一度もなかった。それで十分だと、自分に言い聞かせていた。
だが、ずっと、感じていた。もし、彼女とあの夜を越えていたら?もし、情熱を優先していたら?
——熱に身を焦がせたのではないか。
悔いは、年月とともに薄れるどころか、静かに沈殿していった。
そして、今。目の前に絢聖がいる。
椅子に腰を下ろした私の前に、立っている。距離は、ほんの数歩。あの夜と、同じ。
「……秋頼さん」
呼ばれる。敬称が、ついたまま。それが、最後の防波堤。
私は、応えない。すれば、踏み込む。
胸の奥で、二つの記憶が重なる。
——越えなかった夜。
——越えようとしている今。
違いは、一つだけ。今回は、逃げ場がここにある。私が、彼の逃げ場になっている。その自覚が、決定的だった。
私は、ゆっくり立ち上がる。椅子の脚が床を引きずる。一歩。距離が、縮まる。絢聖君は、後ずさりしない。
選ばせているつもりで、選ばれている。私は、彼に、過去の悔いを重ねている。得られなかった情熱的な関係を、彼となら叶えられると思っている。
——それが、どれほど卑怯か。
——悠の立場も奪っている。
——父として守るべき距離を間違えている。
それでも、止まれない。
「……私は」
声が、低く震える。
「君の揺れを、止めない」
正当化だ。それを、自分が一番よく知っている。
「ただ」
一拍。
「受け止めているつもりだった」
——つもり。その言葉が、すべて。これは、間違えなく自分の欲だ。
手が、動く。伸ばすつもりはなかった。だが、指先が空気を切る。
絢聖が胸に飛び込む。抱き返さない選択などなかった。
あの夜、止まった時が動き出す。取ろうとした距離はもう、意味を失っている。
一線は、肉体関係ではない。決意の有無だ。
そして今、私は、決意してしまっている。
「……大丈夫です。震えないで」
絢聖が、静かに言う。自分の壊れ方を知っている人間の声。それが、私の理性を無力化する。
——越えなかった過去は、正しかった。
——だが、今の私を守ってはくれない。
私は、正しさでは生きられなくなっている。
指先が、わずかに震える。触れる直前。この一瞬で、人生が変わると分かっている。
それでも、止めない。止められない。
越えなかった夜は、完全に過去となる。私は、自分で選んでしまった。その事実だけが、確定していた。
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