16 / 39

第16話

若い頃、手を伸ばさなかった夜があった。 あの日は、今日のように、雨が降っていた。 職場の送別会の帰り。酔っていたわけではない。 理性は、十分に残っていた。 相手は、弱っていた。迷っていて、誰かに決めてほしかった。 あの夜、踏み込めばすべてが変わっていた。それは、理解していた。彼女は、小さく震えていた。 「酔いすぎて…コート店に忘れちゃいました」 誤魔化す態度が痛々しかった。けれど、選ばせる空気。委ねてくる視線。それが、確かにそこにあった。 私は、引き留めなかった。理由は、簡単。 ——正しくなかったから。 …違う。 ——責任が重すぎたから。 ——自分が壊れると感じたから。 ——そして何より、その人の人生を奪うと分かっていたから。 「今日は、帰った方がいい」 そう言って、距離を取った。相手は、一瞬だけ傷ついた顔をした。だが、すぐに頷いた。その表情を、私は一生、誇りにしてきた。 ——越えなかった。 ——正しかった。 そう、信じていた。 その後、私は妻と出会った。穏やかな人だった。 声を荒げず、感情をぶつけてこない。触れ合いも、生活も、すべてが整っていた。 愛は、確かにあった。疑いようもない。愛していたのは事実だ。 だが、燃え上がるように求め合うことは、一度もなかった。それで十分だと、自分に言い聞かせていた。 だが、ずっと、感じていた。もし、彼女とあの夜を越えていたら?もし、情熱を優先していたら? ——熱に身を焦がせたのではないか。 悔いは、年月とともに薄れるどころか、静かに沈殿していった。 そして、今。目の前に絢聖がいる。 椅子に腰を下ろした私の前に、立っている。距離は、ほんの数歩。あの夜と、同じ。 「……秋頼さん」 呼ばれる。敬称が、ついたまま。それが、最後の防波堤。 私は、応えない。すれば、踏み込む。 胸の奥で、二つの記憶が重なる。 ——越えなかった夜。 ——越えようとしている今。 違いは、一つだけ。今回は、逃げ場がここにある。私が、彼の逃げ場になっている。その自覚が、決定的だった。 私は、ゆっくり立ち上がる。椅子の脚が床を引きずる。一歩。距離が、縮まる。絢聖君は、後ずさりしない。 選ばせているつもりで、選ばれている。私は、彼に、過去の悔いを重ねている。得られなかった情熱的な関係を、彼となら叶えられると思っている。 ——それが、どれほど卑怯か。 ——悠の立場も奪っている。 ——父として守るべき距離を間違えている。 それでも、止まれない。 「……私は」 声が、低く震える。 「君の揺れを、止めない」 正当化だ。それを、自分が一番よく知っている。 「ただ」 一拍。 「受け止めているつもりだった」 ——つもり。その言葉が、すべて。これは、間違えなく自分の欲だ。 手が、動く。伸ばすつもりはなかった。だが、指先が空気を切る。 絢聖が胸に飛び込む。抱き返さない選択などなかった。 あの夜、止まった時が動き出す。取ろうとした距離はもう、意味を失っている。 一線は、肉体関係ではない。決意の有無だ。 そして今、私は、決意してしまっている。 「……大丈夫です。震えないで」 絢聖が、静かに言う。自分の壊れ方を知っている人間の声。それが、私の理性を無力化する。 ——越えなかった過去は、正しかった。 ——だが、今の私を守ってはくれない。 私は、正しさでは生きられなくなっている。 指先が、わずかに震える。触れる直前。この一瞬で、人生が変わると分かっている。 それでも、止めない。止められない。 越えなかった夜は、完全に過去となる。私は、自分で選んでしまった。その事実だけが、確定していた。

ともだちにシェアしよう!