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第8話
第八話
「ゆみと」
低くて甘い声。この声に名前を呼ばれるたび、胸の奥がざわめいた。どろりと支配されていく感覚に依存していた。
「貴羅さん」
真っ黒の髪に、暗い瞳、薄く笑っている唇はいつもおれの欲しい言葉をくれた。
「また殴られたの?」
「うん。掃除組のくせに掃除が雑だって」
「かわいそうに、こんな綺麗な顔殴るなんて。ひどい奴らだね」
骨ばった指が頬に触れる。殴られた場所に貴羅さんが触れると、痛みがなくなっていく気がした。冷たい指先が気持ちよかった。
「痛い?」
「はい。慰めてください」
「ふふ、いいよ。おれの可愛いゆみと」
「別にかわいくないよ、おれ」
「可愛いよ?顔も声も、ぜーんぶ」
「ほめすぎ、はずかしい」
「ほんとだよ」
ホストとしてこの人を尊敬していたかと言われると、別に。仕事に情熱が無いおれにとって、この人の功績なんてどうでもよかった。
「ん…っ」
「可愛いよ、ゆみと」
「貴羅さんの前でだけ、だよ」
「そうなの?」
「うん…、貴羅さんが、すきだから、」
ただ、この人はおれを上手く利用してくれたから。おれを無責任に可愛がってくれて、おれにはそれが心地よかった。
「あっ、痛…っ」
「あは、殴られたとこにキスマーク付けても目立たなくていいね」
「ん、…あっ」
「ゆみとは、僕のなんだから、あいつらに媚びたりしちゃだめだよ」
「はい…っ」
わざとケガしてるとこにキスして、痛がっているのを可愛いという。
おれが先輩たちに裏に連れていかれるのを、貴羅さんは知ってる。知ってて止めていなかった。
どう考えてもクソ野郎なのに、おれはどうしようもなくこのクソ野郎がすきだった。
「ねぇゆみと、今日来る僕の姫の枝(友達)が、ゆみとを気になってるんだってさ」
「…」
「適当に寝て、色恋かけて、言うこと聞くようにしておいてよ」
「うん…」
「姫に聞いたら、どっかの会社の社長令嬢なんだって。お嬢様がホスト通いなんて、面白いよね」
売り上げのためじゃなく、ただ面白いという。
この頃のおれは貴羅さんに言われるがまで、気分は共犯者だった。おれだけは、貴羅さんの一番近くにいることを許されている、そんな感覚。
「じゃあよろしくね」
貴羅さんによろしくと言われたら、おれはその通りにする。
「あたし、こういうの初めてで…」
「そうなの?初めてにおれを選んでくれたんだ?」
「うん。だって瑠璃くん、怖くないから…」
「××ちゃんが可愛いからだよ」
はじめてのホストでそのままホテルに来ちゃうなんて、世間知らずなお嬢様だなぁなんて冷めた思考で目の前の女の子を観察する。
キスして、なんとなくいい雰囲気作って、口先だけの「すき」に惑わされた彼女とそのまま寝る。一回寝ると、大体の子がおれに本気になってくれた。この子も、頻繁にお店に来るようになった。
貴羅さんは、「簡単だよね」なんて笑ってた。
「ゆみとはもっとちゃんとやれば売れっ子ホストになれるのに」
「…別に興味ない」
「あは。ゆみとは僕に褒められたくて頑張ってるんだもんね」
「うん。だから褒めて」
「可愛いなぁ、ゆみと。すきだよ」
分かってる。おれも、あの姫と同じ。
この人に抱かれて、愛された気になって、都合よくおもちゃになってる。
だけど別にそれでよかった。
おれだって、貴羅さんを利用してたんだから。
「僕、結婚することにしたよ」
思考停止。は?なに言ってんのこの人。
「僕のエースのお客様いるでしょ、中国人の」
「あ、はい、ヘルプで話したことあるけど…」
「あの人と結婚することにしたんだ」
聞こえているのに、理解ができない。
結婚?あの客と?
「店、辞めるの?」
「辞めるよ。中国に行くことになるしね」
「おれは、…」
「ゆみとと遊べなくなるのは悲しいけど、日本に帰ってきたときはまた遊ぼうね」
また遊ぼうね。簡単に言いやがって。
この人にとって、おれは本当にただのお気に入りのおもちゃで、遊び相手でしかなかったと、この時突きつけられた。
殴ってやりたかったのに、なまじホストで身に着けてしまった愛想笑いはこのときも正常に作動した。
「おめでとう…貴羅さん、」
「あは」
「え、なに…」
「もっと駄々こねられるかと思ったけど、聞き分けが良くて可愛いね。ゆみとは」
ざわりと、腹の中が疼く。
何を言っても、おれはまた置いていかれるんだ。
「そんな顔しないで」
「え…?」
「大丈夫、ゆみとは可愛いから。僕と同じように、ゆみとのことを好きなる人がきっと現れるよ」
「…」
なんて捨て台詞だ。
「今までありがとね」
「あんた、やっぱ頭おかしいね…」
「あはっ、お前も同じだろ?」
心底面白そうに貴羅さんは笑った。
全部めちゃくちゃにされたのに、おれはこの瞬間だってこの人のことが、このクソ野郎のことが、すきだった。
しばらくして、貴羅さんがホスト卒業という名のもとに派手な売上を立てて店を去っていった。結婚のことは従業員だけじゃなく、客の女の子たちもみんな知っていて、それでもホストとしての貴羅さんを愛する人は多かったようで、駆け付けた女の子は多かった。
その一週間後。
退店したいと店の代表に告げた。懐いてくれていた後輩や、先輩の数人は止めてくれたけど、おれにはもうホストを続ける理由なんて何も見つからなくて、店にいるのも嫌だった。
歌舞伎町を抜け、携帯を捨てた。あの人と繋がっているものすべてから逃げた。
帝さんに教えてもらった番号には、確かに見覚えがあった。あの頃、何度もかけた番号だ。
通話ボタン押す指が震えている。出てほしいのに、出てほしくない。自分の心臓の音が頭に響く。
「…もしもし?」
息が止まる。
「…ああ、ゆみと?」
気づかれないように、電話を離して息を吐く。
「この前ぶりだね、貴羅さん」
「あは。やっぱりゆみとだ」
低くて甘い声。この前帝さんの店の前で会った時も、今も、昔と変わってない。
「どうしたの?久しぶりに会ったから、僕が恋しくなった?」
「ほんと、変わらないね。あんた」
「変わる必要あるかな?」
少しの自己嫌悪くらいあるのが普通なんじゃないの。俺が言えたことじゃないけどさ。
「ねぇねぇゆみと、中国においでよ」
「は…?」
「また僕が飼ってあげるよ」
「あんた、まだそんなことやってんの…?」
「愛のある結婚じゃないからね」
「…」
「ゆみとと遊んでる方が楽しそう」
持っていた携帯を握りしめる。
電話の向こうの貴羅さんはたしかに楽しそうだ。だけど、
「無理。もう貴羅さんのおもちゃにはなれない」
笑い声がすっと消える。
「ふーん…?どうして」
「すきな人がいるから」
「あは。好きな人?…ああ、この前連れてた子かぁ」
「うん」
「ゆみと、あんな可愛い子がいいんだっけ?」
「うん。あいつがいいんだよ」
直央のことを考えたら、貴羅さんに奪われた体温が、じんわりと戻ってくる気がした。
「貴羅さんが言ったんじゃん。ゆみとは可愛いから、僕と同じように、ゆみとのことをすきなる人がきっと現れるよって」
「言ったっけ?」
「貴羅さんの言う通りだったね」
重い沈黙も、不思議と怖くない。
「…この電話って、好きな人ができましたって報告の電話?」
「ふは、そうだね」
「ゆみと、変わっちゃったね」
うん。変わったよ。王子様に魔法をかけられて。
世間知らずで、自分に自信満々で、おれの事情とか関係なく、真っ直ぐにすきだと口にするあの王子様の魔法の効果はすごかった。
おれにこんなにも勇気をくれた。
「…おれ、ほんとにあんたがすきだった。あの頃のことだって、やらされてたなんて思ってない。あんたと一緒にいるために、自分でやってただけ」
「…」
「だけど、今はもう違う」
「…ゆみと、もう僕を好きじゃなくなっちゃったんだね」
「そりゃそうでしょ。何年経ったと思ってんの」
「何年だったかな」
低くて甘い、優しくて残酷なこの声に名前を呼ばれるたび焦がれた。愛されたくて。
「あの可愛い子と恋人ごっこするんだ」
「ごっこじゃないよ」
「…あっそ。つまんないね」
貴羅さんは、本当につまらなそうに平坦な口調で呟いた。意外にも、今まで聞いたことのない声だった。
「分かった。もう一生会わないし、お前の顔も名前も全部忘れる」
「…うん」
「じゃあね、ゆみと」
「ばいばい、貴羅さん」
通話を切って、すぐに履歴から番号を消した。
電話する前はあんなに怖かったのに、今はもうなんてことない。
あの人はあのまま生きていくんだろうな。
今はそれもいいと思える。あの人らしいし、結局そういうところもあの頃のおれはすきだったんだ。
ああ、終わった。やっと終われた。
「…会いたいな、直央」
「ばいばいだって、あは」
通話の終わった画面を数秒見つめてから、画面を操作。数回タップして連絡先を開き、削除ボタンを出した。
この番号は五年間ここにあった。
今の今までかかってきたことはなかったけど。
こんなつまんない終わりになるなんてね。
五年前、ゆみとが「連れてって」って言ったら、今も一緒にいてあげたのに。それが今更、好きな人が出来たからさよならだって。
幸せを掴もうとする哀れな元おもちゃのために、終わりにしてあげるよ。
忘れるよ、ゆみと。さようなら。
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