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第一話 無言の傷口
【第一話 無言の傷口】
手元の魔力計測器を睨み付ける。焦りと不安で胃の底がずしりと重くなった。どうにか表示された数値が変化しないものかと念じる。が、当然睨んだだけで針はピクリとも動かない。零れそうになる溜息を呑みこんで、開いておいた手帳の今週の欄に数字を書き残した。力を入れすぎたのか、インクが滲む。綺麗とは言い難い字だ。綴られた二週ごとの結果を眺めれば、より一層事実が付きつけられるようで唇を噛み締める。魔力の伸びが悪い。悪いというよりほぼ横這いだ。どうしたものかと眉を顰めて、魔力量を上昇させねばと焦る。その原因に当たる人物を思いながら俺は首筋を覆う包帯をそっと撫でた。
魔力というのは年齢の増加と共にその最大値が増えていくものだ。出生時の差はあれど最終的な値は自分のルーツとなる種族ごとに一定の平均値に落ち着くとされている。当然多少の個人差というものも生まれてくるが、この学園にいるのは家柄上その平均値から頭一つ抜けた生徒がほとんど。紋様持ち、というアドバンテージを持った生徒の多いこの学園だから尚更のこと。
紋様持ちは置いておいて、身長と同じで魔力量の伸び方には個人差があり、特定の時期に一気に伸びたり、あるいはずっと同じスピードで伸び続けたりといったような個体差はある。感覚的な捉え方はまるっきり身長と同じで問題ないだろう。
ただし、身長と違う点が二つある。一つ目は成長の期間の長さ。そして二つ目は、成長値のドーピングができる、という点だ。魔力は身長と違い成長期間が一生涯に及ぶけど、小学生の頃に一気に魔力が増える人もいれば、三十歳、四十歳になって急に増加する人もいる。逆に一生をかけてじわじわ伸びていくような人も。ただ、二十歳を迎える前に八割程の成長を終え、そこからは少しずつ増えていく、というのが最も多く、各国の調査では人口の六割から七割程度がここに分類されるらしい。
そしてそれとは別に、魔力における最大の特徴はドーピングが可能であるという点だ。ドーピングといっても、違法な肉体改造や体に害のある薬物の使用といった、著しいデメリットのあるものではない。主に五感の一部に制約をかけることによって魔力の上昇幅を増やす方法が一般に広く知れ渡っている。一般的に呪縛印と呼ばれるものだ。
制約による苦痛やストレスが大きいほど魔力の上昇値が多いらしい。ある一定の色や物を視認することが出来ないようにしたり、特定の味を感じることが出来なくしたり、……声を、出せなくしたり。そういった制限を期間を限定して自らに施す。それが、呪縛印。きちんとした原理は俺にはよくわかっていないけど。
魔力の大小で差別するということは現代においてほぼほぼなくなっているので、魔力量によるコンプレックスや周囲の過度な期待に因って、あるいは誰かから強制的に施されて無理な制約を、といった事例は昔に比べて減少傾向にあるらしい。ほとんどが自分への修業とか、より高みへとか、運動部の筋トレのような感覚だ。あとは興味本位。そんな中で今時珍しいその〝無理な制約〟を付けられた人間が、俺だ。俺には自分からこんなものを望む人間の思考は、ちょっと俺には理解できない。
さて、その呪縛印も全ての人間が刻めるわけでもない。呪縛印を刻めるのは、紋様を持っている者だけだ。
紋様持ちは体のどこかに刺青のような印を持つ者のことを指す。紋様はおおよそ五歳から十五歳の間に身体に現れ、一生涯消えることはない。紋様が現れる者とそうでない者の違いははっきりとは解明されていないが、紋様持ちの親の元に生まれた子供は同様に紋様を持つことが多いことから遺伝や血統に起因するのではとも言われている。紋様持ちは何かしらの優れた技能を有している者が多く、魔力量が多いことは紋様持ちの中でも分かりやすい特徴の一つだった。
紋様の大きさ、形、場所は様々で一つとして一致するものはないらしい。けれど、番と呼ばれるパートナーが世界にたった一人だけ存在している、というのは小学校で誰しもが習うこと。番同士の紋様は似たような場所、形のものが浮かぶことが多いという教師の解説は、覚えがあったからか妙に記憶に残っている。俺も洋輔 も、契約印は首に現れている。契約印とは、番契約を経た紋様のことだ。そして不思議なことに、番とは近い年頃、地域に生まれる傾向があることが認められており、番の成立率もそれなりに高い。さらに番同士は能力や人格面において高確率で相性が良く、公私様々な形でパートナーなどとして生涯を共にすることが多いと聞く。その辺りは、紋様が現れた後に役所から渡されたガイドブックに書いてあった。その頃はまだ小学生だったから、よくわかっていなかったけど。
俺の呪縛印の代償は声。しかも己の手で自らに施す一般的な呪縛印と違い、俺のそれは俺の番である洋輔の手によって施されたものだ。番契約は、ヒト側と亜人側のそれが基本。その関係はヒト側が主となり亜人側が従となる。と言っても、今生きている人類に純血種などほとんどいない。自分に発現した能力と出生直後に行われる血液検査で最も濃度の高かった種族を名乗っているだけに過ぎない。それでも一応ヒト側が主人、亜人側が使い魔、なんていう呼ばれ方が、分かりやすいからという理由で今も使われ続けている。
そんな、番の主人によって施された呪縛印は、自分で施した場合と違い印の消滅期限の設定がなく、施した本人の手によって解かれるまで消えることはない。だから、俺の声がいつ戻るのかは洋輔次第ということだ。自分の声を洋輔に委ねていること自体は、不安に感じたことはない。それが信頼なのか、諦観なのか……自分でもよくわかっていない。
俺が恐れているのは、声を失うことではなくて。洋輔に、番契約を解除されること。
「(だから、魔力の上昇率が下がると困るんだけどな)」
俺がこの呪縛印を付けられたのは高等部に入学してすぐのことだった。中等部の頃からこの学園に通い才能の片鱗を見せ始めていた洋輔にとって、俺という使い魔は望む能力を持ち合わせていなかったんだろう。外部の学校に通っていた中学生の頃の俺の魔力は、平均か、甘めに見てもそれより少し上くらいだったし、種族の平均を見ても魔力が特別多い方ではない。魔力が少ない種族は少ない魔力の使用で充分に生きていける効率的な技法を有していることが多いが、魔力が多ければ種族の垣根を越えた能力を得ることも不可能ではない。俺の能力はきっと洋輔にとって満足できる代物ではなかったのだ。だからせめて魔力の増加を図るべく呪縛印を付けた。今の俺はまだ彼が満足するレベルに達していなくて、それ故に呪縛印が解かれることもない。
少しずつ上昇値の減っていく数字の並びを指先で撫でて、俺は掛け時計を見上げた。いつもよりやや早いけど、そろそろ学校へ向かおう。同室の洋輔は俺より早くに部屋を出て遅くに帰ってくる。最近では仕事が忙しくて休日もほとんど学校で過ごしているようだ。一般生徒より広い生徒会役員用の居室が、必要以上に広く感じた。
使い魔はある程度主人からの魔力の供給が必要なものだが、俺は近くにいればそれで魔力の補給ができる。水生の特徴が強いからか、体調不良も水に浸かっていれば大抵回復する。だから、必要以上に一緒の時間を過ごさなくて済む。それが仇となったのか、洋輔は俺とのコミュニケーションの時間を顕著に確保してくれないようになった。
幼い頃は、今思えば何をそんなに話すことがあったのかいうくらい毎日飽きるほど会話をしていたのに、と昔を思い出す。会話が減り出したのは俺が外部の中学に通い始めた頃だっただろうか。当時はそれを改善する精神的余裕も時間も無くて、気が付けばこの学園の入学式を迎えていた。そして、式を終えてすぐに洋輔は俺に呪縛印を施した。契約印の周りを覆うように施されたその痕はそれは美しくて、けれどいつかこの呪縛印が契約印を塗り潰してしまうのではないかと俺は一人で怯えている。
呪縛印も契約印も、他人から見れば美しい装飾品のように見えるのだろう。首をぐるりと覆う唐草の蔦にも水紋にも似た紋様は細かく、それでいて華美になり過ぎず品がある。契約印を囲むように静かに佇むこの紋様が、俺を食い潰していくようでただただ恐ろしかった。
懐かしい思い出。会話が減って、そして呪縛印が施された為に声が出なくなり、ただでさえ少なかった会話すら不可能になった。そしてそこで初めて、俺は自分が洋輔との会話をとても気に入っていて、その時間がとても大切で、何より洋輔のことを恋愛感情として大好きだったことを自覚したのだ。最も、そう気が付いた時にはもうそれを伝える術さえ失ってしまっていたのだけど。
オートロックの扉の鍵が掛かるかちゃりという小さな音が背後で鳴ったことを耳だけで確認して、俺はずり落ちかけた鞄を肩に背負い直す。洋輔はあまり俺に会うことが好きではないようだけど、今の生徒会の仕事量は尋常ではない。例年と時期のズレた姉妹校との交流会が文化祭の準備と重なった上に、インターハイ出場が決まった運動部の壮行会やら食堂のメニューの変更の嘆願書やら、細々としたものまで積み上がってしまっているこの現状では、流石に優秀な生徒会の面々と言えど猫の手も借りたいらしく、俺が手伝いに向かっても文句は言われなかった。
そもそも俺は立場上は会長である洋輔の補佐ではあるので、立ち入りくらいでは見咎められることもない。ただ、書類を捌く能力もないし、そもそもその権限もないから、出来るのは精々が書類の仕分けと部屋の整理整頓、後は伝書鳩代わりの書類運びとメッセンジャーをするくらい。毎日毎日長時間生徒会室にいれば、そのくらいの仕事はすぐに終わってしまう。次第に仕事がなくなって時折お茶汲みくらいしかやることがなくなるのだけど、不意に手伝いに駆り出されることもあるから先に勝手に帰るのも気が引けた。
洋輔は俺が長時間一緒にいると段々不機嫌そうな顔になっていく。けれど、生徒会室ではどうしたって長時間同じ空間にいることになる。だから、せめて洋輔と同じ部屋にいる時間が最低限で済むように、洋輔より遅れてこの部屋を出る習慣が付いた。
少し前に、いっそ俺が部屋にいない方が洋輔はゆっくりと自室で休めるのではないかと思って知り合いの部屋に泊まった時があった。けれど、却って俺が粗相をしていないか、何か問題を起こしていないかと苛立たせてしまったようで、洋輔はすぐに俺を呼び戻しに来た。そんな手間と迷惑をかけてしまってからは、こうして大人しく目の届く同じ部屋にいるようにしている。何にもできないなぁと情けなく思うのはいつものことで、不甲斐ないことにそれにももう慣れてしまった。思うだけで何の解決策も思い付かない無能さが歯痒い。
登校時間より早い時間。寮の中でも役員の居室の集められたこの階は一般生徒の居室の並ぶ階と比べると随分と静まり返っていた。エレベーターに向かう俺の足音がよく響いている。その音が俺の思考に相槌を打ってくれているようで、俺はぼんやりと今日の授業に思いを馳せた。少しだけ、教室に行くのが億劫だ。
俺のクラスに、夏休みの直前に登校を始めた生徒がいる。不登校というわけではなく、怪我が原因で入学式に間に合わなかったらしい。金色のメッシュが特徴的な彼は天然の髪色なのだと誇らしげに笑って、愛らしいその容姿ですぐにクラスに馴染んでいった。俺の首元の包帯を見た彼は、一瞬瞳を輝かせて二言三言俺に声を掛けてきたと思うと、すぐに機嫌を悪くしたようにふいと踵を返して背中を向けてしまったけど。未だに俺がどんな粗相をしてしまったのかよくわかっていないが、まあ、鈍くさい俺だからきっと何かしてしまったのだろう。喋れない俺はどうしてもレスポンスがワンテンポ遅れがちだ。それが癇に障ったのかもしれない。
そんな風に、彼、坂木巡 とのファーストコンタクトは終わった。多少の不興は買ったのかもしれないが、それだけと言われればそれまでのやり取りだ。だから、こんなことになるなんて予想もしていなかった。
数日後の昼休み、彼はまた僕の机の前に来ると、座ったままの僕を見下ろしてにんまりと笑みを浮かべた。
「真砂 クンさァ、首のそれ、何かのアピール?」
「……、……?」
何を言われたのか、その意図が読めずに俺は一拍の間を置いてから首を傾げた。机の中から筆談用のノートを取り出してその表紙に指を掛けた瞬間、バン、と坂木の手のひらがノートを机に叩きつける。突然の大きな音に驚いて肩を揺らせば、最初の時の様に不機嫌な顔をした坂木が自分の首元の印を撫でながら口を開いた。
「次はか弱い振り?……ま、いいや。そうやって余裕ぶってられるのも今だけだから」
あの時は、ひたすらに意味が分からずに混乱していたな。室内履きに履き替えながら小さく溜息を零す。あれから、ことある毎に嫌味や棘のある言い回しで声を掛けられるようになった。今なら意味も分かる。今日もきっと、彼はいるだろうから。
階段を上っていく内に、特徴的なキンキンとした声が響いてきた。階段の踊り場で足を止めて、曲がり角から廊下の向こうの様子を窺う。生徒会室の前で華奢な背中と見慣れた赤髪が何か揉めているようだった。前者は坂木で後者は洋輔だ。この揉め事も最近ではいつものこと。
「だから、いいじゃん。そのうちボクが補佐になるんだからさァ。手伝ってあげるって言ってるの」
「補佐になってから言え。繰り返すが、生徒会室も特別棟も役職持ちの生徒しか入室は許可されていない」
「あたま固ーい。あれよりボクの方が仕事できると思うのになァ。ほら、愛想も良いでしょ?」
小首をかしげて洋輔の顔を覗き込む坂木は、きっと可愛らしい表情をしているんだろう。俺に向けてくる表情とは正反対の。でも、不機嫌そうな顔も絵になっているから、顔の造りが整っている人間というのは羨ましいものだ。自分の顔を思い浮かべる。不細工とまでは言わないが、ううん、どうにも、薄いという印象が強い。日焼けしにくいからか肌は白いし、髪の毛もぱっと見は灰色掛かった色味でやはり全体的にぼんやりとした印象だ。だから余計、洋輔の紅色に魅かれるのかもしれない。
はあ、と癖の様になっている溜息を零したところで、くるりと坂木がこちらを振り向いた。ぐ、と眉を寄せて不愉快だという表情を作ったあと、またきゃらきゃらとした声で洋輔に擦り寄る。
「なんか向こうから睨んでくる人がいてコワイからァ、今日はもう教室に戻りまァす。明日こそ一緒にお仕事させてね?」
きゅ、と洋輔の手を両の手で握りしめてから坂木はこちらへ向かってくる。逆サイドの階段を使って下の階に向かえばいいのに、いつも彼は俺に向かってまっすぐ歩いてくる。鞄の紐を握りしめて、深呼吸を一つ。気にしていない振りをして彼の隣を通り過ぎ、ようとして、ぐい、と強く右腕を引かれた。踏鞴を踏みながら引っ張ってきた張本人を見つめ返せば、俺より大分下にあるそのはずの視線は、憐れなものを見下ろすような色をして俺を見詰めてきた。
「ニセモノの番はさっさと身の程を弁えてよね。人魚だかなんだか知らないけど、歌えないんじゃただのサカナじゃん」
「…………」
「下っ手くそな歌声だから封印されたんじゃないの?誰があの人に相応しいか、よぉく考えた方が良いんじゃない?」
あーあ、サカナ臭くなっちゃう。そう言って坂木は階段を降りて行った。これで私物に手でも出されていたら虐めだよなぁ、と、鈍い痛みを発する腕を摩る。暴力は振るわれないけど、どうにも彼は力加減が上手くないようで、これまでも何度か腕に痕が出来たことがある。まあ夏服でも長袖のワイシャツを着ているから、もし痣になっても目立たないだろうからあまり気にしていないけど。
痕が出来ることよりも坂木やその周囲に騒がれることの方が面倒だし、それが洋輔の耳に入って鬱陶しがられでもしたらそれこそ最悪のパターンだ。こうやって突っかかられて、腕や肩を引かれるくらいのことしかされていないのに、必要以上に大事にしたくない。
少しだけシャツをたくし上げて、赤くなっている腕をちらりと見る。小学生の頃は一日中プールで遊んだせいで日焼けをして体中真っ赤になって痛い痛いと洋輔に泣きついたこともあったっけ。あの時は洋輔も大慌てで、タオルで包んだ氷嚢を頬や首筋に当てながら大丈夫かとずっと声を掛け続けてくれた。火の素養が強い洋輔だって、長時間プールに居て体力の限界だったはずなのに、俺が泣き疲れて眠るまでずっと隣にいてくれた。というか、隣で寝落ちていた、が、真実だけど。痛みは強かったものの、結局日焼けはほとんどせず。それなのに洋輔が一晩中掴んでいたらしい腕には痣が出来ていたというオチがあって、これにはお互いの両親も苦笑いだった。
お互いが番だと認識してから、俺は洋輔の家で彼の家族と同居を始めた。とは言っても、彼の実家はそれなりの豪邸であるのでハウスキーパーさんたちや家庭教師の先生たちの出入りも多かった。だから二人きりになるような機会はあまりなかったけど、それでも一緒に過ごした時間はとても楽しかった。中学生時代は、俺が家の事情でこの学園ではなく遠くの学校を選んだせいで会える時間も少なかったし。……今思えば、その頃から俺たちの関係は少しずつ噛み合わなくなっていたのかもしれない。
そうして、今年の春。この学園への入学直後に、俺はこの呪縛印を以て声を封じられた。理由は分からない。何度か聞いても答えてくれなかったし、しつこく何度も同じ質問を繰り返せるほど俺たちの関係は温度のあるものではなくなっていたから。
でも、だからって、番を解消したいなんて考えたこともない。俺は、だって、洋輔のことが今も好きで。その言葉を口に出来なくなった瞬間にその事実に気が付くような鈍感な男だけど、この気持ちは誰かに指図されて変わるものではないから。
生徒会室の扉を開けたところで立ち止まっていた洋輔に、ぺこりと会釈を返す。おはようとか、ありがとうとか。そんな意味を込めて。洋輔はあまり筆談の相手をしてくれないから、言いたいことはとりあえずボディランゲージで伝えることにしている。伝わっているかどうかは、ちょっとよく分からないけれど。
パタン、と扉を後ろ手に閉めながら部屋を見れば、他のメンバーはまだ登校していなかった。あ、いや、副会長の机に鞄があるから、登校はしているけど外出しているのかもしれない。昨日風紀委員と話があると言っていたからそれ関連だろうか。この時間だと風紀委員もまだ登校していない可能性が高いと思うのだけど。それが分からない人ではないだろうが、はて、仕事を放棄してサボる人でもないし。そも、サボるならわざわざ鞄だけ生徒会室に置きに来るのも不自然な話である。
ぐるぐる考え事をしながら端のラックに自分の鞄を置いて何とはなしに身支度を整えるのは、洋輔と二人きりだという事実から目を逸らしたいからだ。嬉しいけど、気まずくて、不安で、こわい。俺は嬉しいけど洋輔はきっとそうじゃないだろうな、とか。考え出したら止まらないから、関係ないことを考えて、目の前の作業に集中して、誤魔化し続けている。
「涼 」
何時振りかわからないくらい久しぶりに名前を呼ばれて、思わず勢いよく振り向いてしまった。その勢いに驚いたのかぴくりと眉を動かした洋輔は、その眉を顰めて俺に向かって手を差し出してくる。
「腕を出せ」
端的な言葉に従って左腕を前方へ差し向ければ、短い舌打ちと共に逆だ、と返される。慌てて右腕を差し出せば、緩く手首を掴まれて、くい、と腕を引かれた。反射で一歩洋輔に近付いて、こんな距離も久しぶりだと苦しくなる。同じベッドに潜り込んで夜中までお喋りしていた子供の頃が懐かしい。あの頃に戻れたらいいのに。戻りたい。帰りたい。言葉には出来ないし、するつもりもないけど。
込み上げそうになる涙を堪えるために唇を噛み締める。くるくるとシャツの袖を捲り上げながら、洋輔が細くなったな、と呟いたのが聞こえて自分の腕を見詰めた。頻繁に体重計に乗るような習慣は無いし、洋輔と比べたら小食ではあるけど、言うほど変わっただろうか。自覚は特にない。そう脳内で首を傾げていたけれど、手首に近いところとはいえ洋輔の指が楽々ぐるりと一周して隙間さえある様子を見ればそう言われるのも仕方がないことに思えた。元々太りにくく筋肉も付きにくい体質ではあるが、身長もそこそこあるし、ここまで細くはなかったはずだ。久しぶりにまじまじと自分の腕を見詰めたけれど、知らない間に痩せていたのだろうか。
何度か摩るように前腕の……先程、坂木に掴まれた辺りを暖かな洋輔の手のひらで撫でられて、その温もりと感触がくすぐったくて、結んでいた唇からふ、と呼気が漏れた。
「治癒魔法かけるぞ。……お前、すぐ痕になるだろう」
洋輔は俺の返事を待たずに咥内でぼそぼそと詠唱を唱え始めた。治癒魔法、まだ詠唱がちょっとだけ苦手なんだね。軽口を挟みたくなって、誤魔化すように苦笑いをした。どうしたって慣れやしない。どんなに態度が冷たくなって、一緒にいる時間が少なくなって、会話が出来なくなったって。こうやって俺を守ろうとしてくれる手の熱さは変わらないから。その優しさが少しでも俺に向けられている間は、俺は、洋輔のことを嫌いになんてなれない。だから、話しかけたいと思ってしまう。触れたいと思ってしまう。一緒にいたいと思ってしまう。そう思っているから、きっとずっと、俺は何度でも言葉を口にしようとしては失敗するのだ。
本当は。逃げ出したくて、泣き喚きたくて、解放してくれと縋りつきたくなる時もある。それだって本当の俺の気持ちだ。だけどその度に、洋輔が隣にいない未来の方が恐ろしくて震えが止まらなくなるから。何にもできないでただ被害者みたいな顔をしている。そんな醜い男でいることに、俺は心のどこかで安堵しているのだ。
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