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第8話

 翌朝、信じられないことに、筑紫さんはいつも通り会社へ行った。あまつさえ、布団の中で寝たフリをする俺の頭を撫でて。  あんなことがあったのに。あんなことをしたのに。  苛立つ気持ちは、軋む身体で寝返りを打つたびに膨れ上がる。腰も肩も尻も股関節も、あらゆる所が痛くてベッドから降りる気にもなれなかった。  でも、スノーボールの餌だけは取り替えてやる。あの生き物には罪がない。俺はハムスターを殺さない。  そうこうしているうちに、玄関ドアの鍵が大きめの音を立てた。やっぱり時間通りで癪に障る。 「今日、晩飯ないから」  満身創痍だなんて悟られなくて、俺はテーブルに両手をついてその人を出迎えた。 「……そうなんだ? 何か買って……」 「違う。やめろよ、そういうの。…………お前、あんなことしといて何でそんな普通なわけ?」  わざとらしく丸くした目を、今度は悲しそうに細めて、筑紫さんは下を向く。そして、ぽつりと呟いた。 「…………ハルカは嫌だったんだ?」 「嫌だったんだ? は? 俺が喜ぶと思ってたわけ?!」  思わず語気が強くなる。怒りを覚えることさえ屈辱的なのに、溢れる感情を抑えきれない。 「そっか。悪かった、ごめん」  それなのに、この人は、ちょっとした約束を忘れたときのような気易さで。 「なんであんなこと……俺に嫌われたくてやったわけ? 早く出て行ってほしくて?」 「違うよ。たまにはああいうのもいいかなって。……ハルカは、いつものはどう思ってた? あれも嫌だった?」 「はぁ? それは……」  言い淀む俺を見て、筑紫さんは顔を傾けて眉間に薄っすらと皺を寄せた。それから、諦めと呆れを同時に含んだような小さなため息をつく。 「そっか。ずっと無理してたわけか。別に、そんなことしなくてもよかったのに。家のことやってもらってたわけだし」 「だから、それは……って!!」  俺の声に、筑紫さんの左目がひくりと動いた。 「それは、何?」 「それは……だから、別にそんな嫌じゃなくて……。何で俺が何も言ってないのに決めつけんだよ。……てか、筑紫さんこそどうなんだよ? 何で今まで隠して……」 「俺?」  その時、カタカタと回し車の音が聞こえてきて、筑紫さんは一度スノーボールの方を振り返る。そして俺に向き直ると、少し乱れた前髪を大きな手で掻き上げた。 「だって、ハルカがそれを望んだから」 「……え?」  俺を射竦めるような目つきに、背中を冷たい汗が流れる。 「初めて会ったとき、覚えてない? 俺Sだからイジメてやるよって、ハルカが言ったんだよ」  そんなこと、覚えているわけがない。ベロベロに酔っていたし。でも、確かに、筑紫さんを紹介してもらったのはマゾタチに対する好奇心からだった。あの時の俺は、自分よりも惨めな存在を感じたくて。 「じゃあ本心は何なんだよ?! 何で今までこんな、騙すみたいにっ……」  ダイニングテーブルを挟んで立っていた筑紫さんが、ゆっくり俺の方に歩み寄ってくる。コートのボタンをひとつひとつ外しながら、真正面から俺を見下ろす。 「な、なんだよ……」 「俺は1つも隠し事なんてしてないし、嘘もついてない」  心臓がばくばくと脈打ち、口から零れ落ちそうだった。筑紫さんの高い鼻梁が、スノーボールが巣材を掻きまわす音が、なぜか俺を焦らせる。 「素直になるべきなのは、ハルカの方だろ?」  すべてを見透かし、すべてを見下し、すべてを見限りそうな冷たい口調に、俺は頭に血が上るのを感じていた。 「じ、じゃあ……答えろよ。筑紫さんは」  本当はこんなこと聞くつもりはなかった。こんな話をしたかったんじゃない。俺は、本当は。 「お前は、俺が」  それなのに、口が止まらない。操られるみたいに、勝手に言葉が零れ落ちる。 「俺が出てったら、どうすんだよ……?」  短い沈黙の中、筑紫さんがネクタイを緩め始めた。長い指が結び目の窪みに埋まり、ぐいぐいとそれを引き下げていく。 「どうもしないかな。でも……嫌だなとは思う」  やがて晒された無防備な喉骨。それを見た途端、俺の中で何かが弾けた。 「やめろよ!!」  ザラザラ、ツルツル。掴んだ化繊の肌触り。力任せに引き絞ると、ワイシャツの角が食い込んで、柔らかな肌がぐにゃりと歪む。その体ごと押し当てた食器棚がガシャンと音を立てても、筑紫さんはされるがままだった。 「やめろよ、そういうの。そういう風に、俺のことっ……」  ぶら下がるように体重を掛けて、強く強く首を絞めていく。俺の頭から垂れた汗が耳裏を通って、じんわりと首元を濡らした。 「なぁ、おい、俺のこと突き飛ばせよ。せめて苦しいって言えよ!!」 「…………言うかよ」  震えながら持ち上がった口角。この人の犬歯が左だけずれていることを、俺はこの時初めて知った。

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