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[バク] 17.可哀そうじゃない

今夜の客は、長い髪の美しいお姉さんだった。 よく似合う上品な服装で、デザインの凝ったネイルをしている。 「キスをされるとね、身体が熱くなって心臓がドキドキするの。それでね、あの指で手や肩や腰を触られると胸がギュッとして、とっても幸せで満たされた気分になる。その瞬間だけでも、彼を独占できているんだって思えるから」 初めて、客の言っていることがほんの少しだけ理解でき、前のめりに聞いてしまった。 近頃は僕からねだらなくても、ディンゴは始めと終わりに、キスをしてくれる。 舌を入れるような濃厚なキスではなく、そっと触れる体温の伝わるやさしいキスを。 それだけで僕は満足で、きっと飛び切りうれしそうな顔をしてしまっているだろう。 「声も彼の大きな武器。低くて甘い声で、大丈夫?なんて囁かれたら、身体から力が抜けてしまうのよ」 そう言って、彼女は綺麗な仕草でコーヒーを一口飲む。 ローテーブルの上には四つ足の人形と砂時計が置いてあって、お姉さんは人形に向けて、話しかけている。 お姉さんの話をしっかりと聞いていたかったけれど、やっぱり途中で具合が悪くなり、グッタリとしてしまう。 こうなると思考が鈍り難しいことは、あまり考えられない。 「でもね、あの人には家庭があるの。私、一度こっそり見に行ったのよ、彼の新築の建売住宅を。都下の新興住宅街なんて彼に少しも似合わなかった。駅からもかなり歩くし。……もうすぐ娘が産まれるんですって。うっかりお腹の大きな奥さんを家の前で見ちゃって、気分が萎えたわ。化粧っ気もない地味な女でびっくりよ。だからね、別れてあげることにしたの」 「彼のことを愛していたんですね」 サーバルが口を挟み誘導する。 「彼を愛しているからこそ、私には別れてあげるしか出来ないのよ……あぁバカみたい」 お姉さんの声が何かを堪えるように、震えているのが分かった。 僕は具合の悪さに耐える為に眼を閉じていたけれど、彼女の綺麗な顔はきっと涙で濡れているだろう。 サーバルがティッシュの箱を渡したのが、気配で分かった。 それでも僕には、お姉さんに同情したりする余裕はない。 大きな河原の石を、何個も飲み込んだように内臓が重く辛いから。 だからこの後のディンゴとの行為だけを考えて、体調の悪さにひたすら耐えることしか出来ない。 映画が終わり、スッキリした表情のお姉さんが背筋をしゃんと伸ばし颯爽と帰ってゆく。 玄関ドアが閉まり、僕はディンゴに抱えられて部屋に運ばれる。 恥ずかしいことに、股間はすでに兆してしまっていた。 早くキスをして欲しくて、長い指で触って擦って欲しくて、気持ちよくなりたくて。 自分がこんなにイヤらしいとは思わなかった。 それともこの感情は、今まで散々聞いてきた、僕の唾棄する恋心なのだろうか。 ディンゴには、恋や愛に達者で簡単に人を好きになったりしない人が選ばれると聞いている。 ディンゴにとっては、こんな行為で少しの心も動かないのだろう。 僕とは経験値が違うのだから。 今夜も震えるほど気持ちよく、恥ずかしい声をあげながら吐精し、白濁を拭き取られ、労うようにキスをしてもらう。 僕は、薄れゆく意識の中で考える。 もしも、もしも。 ディンゴが僕を好きだと言ってくれたら、僕はその愛を食べてしまい、愛は消えてなくなるのだろう。 もしも、もしも。 僕が、ディンゴを好きだと言ったら、それはどうなるのだろう。 自分で食べて無くしてしまうのだろうか。 今度、サーバルに聞いてみなくては……。 眠りに落ちる寸前、ディンゴが左手で頭を撫でてくれたのが分かった。 「了也さん……」 名を呼んだつもりだけれど、音となって彼に聞こえていたかは分からない。 僕はスヤっと心地よく眠りに落ちていった。 — 翌日の日曜。前庭の大樹に数輪の薄ピンクの花が咲いた。 他の蕾も今にも咲きそうに膨らんでいる。 「開花したな」 書庫で本を読んでいると、髪がボサボサのディンゴが起きてきて、窓の外を眺めて言う。 「この樹って桜?」 「なんだ洸、分かってなかったのか?この木は、ソメイヨシノだ」 「植物の名前なんて全然知らないもの。それに葉っぱも花もない状態で分かるわけがないです」 少しむくれ、そう答えた。 「悪い悪い。ゆるせ。そうだ、洸は花見をしたことがあるか?」 「ない……」 「あぁ、それは可哀そうにな」 そう言って僕に近寄り、大きな手で頭をクシャクシャと撫でてくれた。 「あのね、了也さん。いつもいつも僕のことを可哀そうって言ってくれるけど、そんなことないですから」 ディンゴの手が止まり、僕を見る。 「そりゃ自分でも、この体質を可哀そうって思ってた時期があったけれど、ここに来て皆に囲まれて、僕は今、少しも可哀そうではないです。むしろ幸せ。こんなにも僕が人の役に立てる居場所があったんだから。皆にも本当に感謝しているんです」 僕が急に一生懸命喋るから、ディンゴをびっくりさせてしまったかもしれない。 気まずい気持ちになって、俯いてしまった。 「そうか……。そうなのか。それは悪かったな。うん、少し見え方が変わったよ。うん」 ディンゴはそう言って、階下へ降りて行く。 呆れられたかと思ったが、しばらくして窓の外から声が聞こえた。 「洸、こっちに来てみろ。その窓から見るより、下から見たほうが花がよく見える。まだ一分咲きだけどな、綺麗だぞ」 僕は本をバタンと閉じて階段を駆け降りた。 急いで靴を履いて玄関を出ると、思っていたより暖かい春の風が吹いていた。

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