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[ヘラジカ] 7.嵐の中の来客
午後には台風が関東を直撃するという。
事務員の帰宅時間のことを考え、本来なら盆休み前で忙しい本部事務局の業務も全て休みとする。
昨晩は事務所の自室で眠った私も、窓がガタガタいう年季の入った実家が心配で、朝早い時間に吉祥寺へ移動した。
本日来る予定だった相談者にも「行き帰りの安全を考え日程を変更してほしい」と、洋介が連絡済みだ。
「和樹さん、雨風が酷くなる前に、買い出し付き合ってほしいんだけど」
昼前にそう誘われ、洋介と二人、車で近所の大型スーパーへ買い出しに出た。
洸にも「駅前でパンを調達してきて欲しい」と、洋介が頼んでいる。
こうして皆にきちんと仕事を割り振るのは、洋介のいいところだ。
了也は通常通り仕事へ行ったが、流石に自転車では通勤しなかったらしい。
買い物から戻る頃には、雨脚は強まり始めていて、前庭に停めた車から玄関に荷物を運ぶだけで、かなり濡れた。
洋介はこの非日常な雰囲気にはしゃいで、車の中でも鼻歌を口ずさんでいた。
荷物を運びながら少し濡れたくらいでは、機嫌は損ねなかったようだ。
家に入ると、話し声が聞こえてくる。
了也が早退し既に帰宅しているようだ。
キッチンに荷物を置きリビングへ向かうと洸は部屋着に着替え、フェイスタオルで頭を拭きながらココアを飲んでいた。
テレビでは天気予報が流れていて、了也はそれを見ながら、洸ではない人物と話をしている。
驚きのあまり、私も洋介も動きを止めた。
「おかえりなさい。驚かせちゃってごめんね。彼、この前動物園でお友達になった翔(しょう)くん。さっきパン屋さんの帰りに偶然会って、立ち話してたらびしょ濡れになっちゃったの。だからうちへ寄ってもらったんだ」
何も言わない洋介に不安になったのか、洸は「ダメだったかな?……」と小さな声で呟く。
だから私が「いえ、問題ありませんよ」と答えてやった。
洸と了也は名刺を渡したのだろう。
リビングのローテーブルの上に、滅多に使われることのない二枚が並べて置いてあった。
翔は少し緊張したような顔で、洋介と私を見た。
「こんにちは。図々しくお邪魔してすみません。凄い雨だったから助かりました。僕、二週間ほどこの辺りでホテル暮らしをしていたんです。それが今朝、急遽実家に帰ることになって。ホテルを引き払った直後に、台風直撃で新幹線が止まってるって知ったから、困ってオロオロしちゃってて。駅の近くで偶然洸くんに会えた時「どうしよう洸くん」って泣きついちゃいました」
一息に、まるでこちらに口を挟ませたくないかのように、翔は喋り続ける。
「そうですか。大変でしたね。明日には新幹線も動くようですよ。今日は泊まっていきなさい」
私がそう言うのが予め予測できていたかのように、翔は素直に「ありがとうございます」と頭を下げた。
昼食用に洋介がミートソーススパゲティを作り、家中にいい匂いが漂っている。
キッチンのテーブルには椅子が四脚しかないので、冷蔵庫前に置かれているスツールを足し、五人で食卓を囲んだ。
洸は粉チーズが好きなので、洋介が冷蔵庫から取り出してテーブルに置く。
その時、いつもは出さないタバスコも一緒に取り出し、並べて置かれた。
洸は粉チーズを、翔はタバスコを手に取りふりかけ、二人とも「美味しい、美味しい」と頬張った。
洋介は少しホっとしたような顔をして「おかわりあるから」と二人に声をかけた。
午後は、二人で書庫に行き、翔のおすすめを洸が教わっていたようだ。
途中からは了也も加わって、あぁだこうだと盛り上がっている。
洋介は二階へ近づくわけでもなく複雑そうな顔をして、リビングのソファに座り込んで、スマートフォンのゲームをしていた。
夕食時、炊き込みご飯を食べながら、私が意地悪く翔に問いかける。
「二週間ほどホテル暮らしをしていた、と言っていましたが、理由を伺ってもいいですか?」
洋介が箸を止め、顔をあげる。
「ちょっと家族と仲違いして、懐かしい土地に気分転換しに来ました」
「翔くん、前に吉祥寺に住んでいたことあるの?」
何も知らない洸が、無邪気に問う。
「うん、あるよ。一年だけね。楽しかった。いい思い出ばっかりなんだ。僕、その時、好きな人ができてね……」
洸が、そういう話は聞けないというように身構える。
けれど、心配するような話は続かない。
「その人のことは今はもう好きじゃないから、あのドキドキする気持ちは思い出せないんだけど。少し時間が経ってみれば、ここで過ごした日常生活そのものが、楽しかったなって気が付いたんだ。洸くんもさ、動物園行ったり、本読んだり、こうして一緒に暮らしている人達とご飯食べたりっていう毎日を、大切にするんだよ」
「うん」
洸がコクリと大きく頷いた。
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