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第2話 記憶1

◇  萌黄色の葉が風に揺れ、ざざっと音が鳴る。窓辺で微睡む男の耳を、その音が撫でては通り過ぎていく。まるで、彼に早く目を覚ませと言っているようだ。  その鼻先には、土の匂いと花の香りがふわりと触れているのだろう。それが与える少しの湿度と温もりが、彼に芽生えの季節が到来したことを告げていた。 「——あれ? なんだか明るいな」  太陽の光やそれによってもたらされる暖かさを感じることなど、この一年間まるで無かった彼は、驚いて周囲を見渡した。  そこには、柔らかな色味に満ちた春の景色が広がっており、昨日までの冷たくカビ臭い目覚めとの違いに、思わず身を固くする。  部屋は地下にあり、陽の光すら届かないはずだ。それなのに、今五感を通じて季節を感じている。一体何が起きたのだろうかと、彼は思わず肝を冷やした。 「アンナ? アンナ、どこにいる?」  微睡の中から無理に抜け出したからか、まだ見えている景色はそのほとんどの輪郭がぼやけているのだろう。どうやら、彼にはここがどこであるのかがいまいち分かっていないようだ。  その上、ずっと彼の隣にいてくれた侍女の姿も見当たらない。まるで迷子の子供のように眉を下げ、彼は侍女の名を呼んだ。 「アンナぁ……」  心細くなってしまったのだろうか。彼は思わず涙まじりの声を漏らす。そこへ、ふっと笑う声がどこかから聞こえて来た。その音の方へと彼が振り向くと、片手に主人の着替えを持ち、もう一方の手で口元を隠したアンナが、くすくすと楽しそうに笑っていた。 「お目覚めですか、イセイ様。そんなに不安そうにして、どうされたのです」 「アンナ! どうされましたじゃないよ。これどういうこと? 説明して!」  イセイは急に起こった環境の変化について行けず、不安を解消しようとしているのか、アンナの方へとかけていこうとした。しかし、どうやら足に力が入らないらしく、寝台を飛び出そうとしたものの、うまくいかずにそのまま崩れ落ちてしまう。 「——うわっ! あれ、力が入らない。なんで?」 「ああ、イセイ様。まだ急に動くと危のうございますよ。おそらく、お薬のせいでまだ体が万全ではございませんから」  アンナはそう言って、イセイが座りやすいように枕元を整えると、その体を抱えるようにして彼を座らせた。イセイは力の入らない足を見ながら、アンナの言葉を反芻する。 「薬のせい? 僕、どこか悪くなったの? だからラクスを追い出されたのかい?」  高級娼夫として娼館に勤めながら、自らのヒート以外では誰とも肌を合わせないのに、会うだけで癒されると言われて人気娼夫だった『ダナ』。彼は、実はこの城で生まれ育っている。ダナは源氏名だ。彼の本当の名は、イセイ・オルサラータという。  彼こそが、地下室で目隠しをされていたオメガで、アンナが仕えるオルサラータ王家の第二王子だ。母王ジュオと父王カルールという、運命の番の間に生まれた息子でもある。  ジュオの後継は、側室のソマとの間に生まれている第一王子のサイリューに決まっていて、イセイはそれを支える宰相として働く事になっていた。しかし、成人を迎える予定だった一年前、ある事が起こったためにそれは中止され、彼はこの城を出てラクスに住み込みで働いていたのである。 「ああ、いえ、そうではありません。ジュオ様から、お城へ戻って良いとのお達しがあったのですよ。もともと貴方様がラクスへ身を隠したのは、お城にジュオ様以外のオメガが安心して暮らす事が出来るお部屋がなかったからでございましたでしょう? その準備が出来たので、こちらへ戻って来るようにとのことだったのです。それも、昨夜中に戻っておくようにと仰せつかりましてね。驚かれましたでしょう? 私も驚きまして、ジュオ様に何度も確認しましたもの」 「そうなのか……。いや、驚いたなんてものじゃないよ。目が覚めたらいつもと違うところにいたからさ、誘拐されたのかと思ったよ。ほら、ヒート期を買い上げたい常連さんとかもいただろう? でも全部断ってたから、痺れを切らしたお客さんが強行手段に出たのかなって思ったんだよ」 「まあ、恐ろしい。でも安心なさって。そんなことは、オルサラータでは絶対に許されません」  アンナはそんなことは絶対にあってはならないと、何度も強く被りを振った。そして、イセイの手を取ると、その目を細めて愛おしそうに彼を見る。しかし、口調は強い意志を表し、はっきりと彼に言い切っていた。 「イセイ様。この国では、王家の直系オメガは何よりも尊い存在です。国を繁栄させるためには、貴方様の存在は必要不可欠となります。オルサラータの民は貴方を愛しています。何が起ころうとも、皆が必ず貴方様をお守りいたしますからね」  イセイはそう言って微笑むアンナの言葉に胸を打たれていた。しかし、同時に同じくらい傷ついてもいた。  確かに、民はオルサラータのオメガを愛している。でも、それはイセイ本人を愛しているのとは訳が違うと彼は考えていた。母王として即位することが出来るのがオメガだけであるため、王家のオメガである彼を尊い存在だと思っている。ただそれだけだと彼は思っているのだ。  現国王がジュオに決まったのも、ジュオがオメガだったからだ。ジュオには兄が二人いる。しかし、彼らはアルファだ。当時の母王は、その後継を選ぶ際に、バースだけでジュオを選んだのだという。後継者を選ぶ際に、その人の性質がどんなものだろうが、そんな事は関係ないらしい。 「オメガは尊い存在だから守られる、か。じゃあ僕がどんなに嫌なやつでも、オメガっていうだけで守ってもらえるって事だよね」  彼がそう言って自嘲するように笑うと、アンナは目を剥いた。尊ばれる存在のオメガは、決して侮蔑してはならない。例えそれが自分自身であっても、それは固く禁じられている。 「何をおっしゃいますか! 貴方様は特に皆様に愛されておりますよ」  アンナは優しい人だ。いつも彼を気遣っている。そして、同じくらいに国への愛が深い人だ。  だから時々、彼女の言う事が彼自身よりも国の方を思っているのだろうなと思ってしまう時、少しだけだが彼の心がささくれてしまう事がある。今がまさにその時だろう。こうなってしまうと、僕はまるで子供のように駄々を捏ねることになるに違いない。 「……じゃあ、どうしてあの時皆は僕を追い出したりしたんだよ。本当に僕のことを大切に思ってくれてるのなら、初めてのヒートで混乱してる僕を城から追い出すなんて横暴な事はしないでしょ?」

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