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第54話 海斗サイド・衝撃
俺は今、医大五年の研修生として救命救急科にいる。
ここは二週間の予定だ。
医大生はすべての診療科を回らないといけない。
その中でも救急科は、しんどいことで有名だ。
何が来るか分からない。
ほとんど亡くなっているような人も運ばれてくる。
大学病院は第三次救急指定病院だから、
命の危険がある患者が最優先で運ばれてくる。
スタッフは揃っている。
天井のスピーカーから、絶えず救急車の情報が流れてくる。
それを全員で把握して、準備に入る。
その時だった。
「大学校舎内の大階段から転倒。頭部強打、頭部裂傷、出血多量、全身打撲、頸椎保護……」
次々と情報が入ってくる。
うちの大学の学生?
「名前、葉月とおる。文学部四年」
頭が真っ白になった。
脚ががくがく震えてきた。
まさか、とおるが三次救急?
いや、待て。
うちの大学の学生なら、三次じゃなくても運ばれてくる。
でも……救急車だよな?
考えているうちに、もう到着した。
手が震えて止まらなかった。
顔を見たら、やっぱりとおるだった。
どうしたんだよ。
処置台に移し、全員で一斉に取り掛かる。
俺はバイタルを見て、大声で報告した。
モニターの数値も次々と読み上げる。
医師たちは患者に集中しているから、
耳からの情報が命綱になる。
服を脱がせ、医師が消毒し、導尿が行われる。
頭部の裂傷はすぐに消毒して縫合。
今回はホッチキスで済んだ。
同時にエコー。
すべてが同時進行だ。
内臓に問題がなければ、レントゲン、CT、MRIへ。
頭の中で出血していたら命取りだ。
「検査室に連れていきます!」
俺は率先して志願した。
どうせストレッチャーは二人必要だ。
「ああ、頼む。変化があったらすぐ連絡しろよ」
「はい、承知しました」
同期と二人で検査室を回った。
どさくさに紛れて、とおるの手をぎゅっと握った。
こういう時、患者を励ますために手を握るのは有効だ。
手の感覚は、耳と同じで、意識が薄くても残っていることが多い。
とおるは意識がはっきりしていない。
最初の問いかけにも答えられなかった。
頭部の衝撃はどうだったんだろう。
早く、早くと検査を急ぎたかった。
意識のないとおるを見て、
気が狂いそうなくらい焦って、胸が潰れそうだった。
なんで階段から落ちたんだよ。
握った手の感触に、ドキッとした。
ガサガサで、指先の皮膚が薄くなっている。
あちこち擦れて、かすり傷もある。
やけども、切り傷も、かさぶたも。
何をやってるんだよ。
俺から離れてこんなになるために手放したんじゃない!
怒鳴りたかった。
MRIは最低でも二十五分かかる。
ずっと検査室の前で見守らせてもらった。
モニターに次々と映し出される画像。
出血は……ないように見えた。
ふう、と小さく息を吐いた。
検査技師が言った。
「もしかしてお知り合いですか? すごく心配されますね」
鋭いな。
同期も「俺もそう思ったんだけど……」
「うん、まあね。後輩だからさ」
「あ、なるほどね」
それだけで信じてもらえた。
まさか“婚約者”とは言えない。
結局、MRIもCTもレントゲンも異常なし。
本当に良かった。
ああ……それにしても、
俺はなんでとおるを守れないんだろう。
情けなかった。
安心した途端、心がキャパを超えた。
処置室に戻し、検査結果に異常がなかったから、
とりあえず入院して様子を見ることになった。
外科病棟へ運ばれていく。
それにしても、血液検査で栄養失調が出た。
愕然とした。
料理がうまいのに、
一人になったらろくに食べていないのか?
どんな生活をしてるんだよ。
俺と暮らしていた時は、こんなことなかったのに。
離れている間に、とおるがどれだけの負担に耐えていたのか分かった。
悲しくて心が張り裂けそうだった。
「すみません、ちょっと腹痛で……」
そう言ってトイレに行かせてもらった。
そこで声を殺して泣いた。
本当につらかった。
守ってやれない自分が悔しくて、情けなくて。
今は何もしてやれない。最低だ。
*
翌日、俺は売店でハンドクリームを買った。
そして外科病棟のナースに、
「葉月君の手荒れが酷いので、これを一日に何回か塗ってあげてください」
とお願いした。
多分、今頃はみんなで塗ってくれているだろう。
でも、あの手はすぐには治らない。
もっと時間がかかる。
弁当屋でバイトしていたのは知っていた。
でも、今でもそんなに働かないといけなかったのか?
俺と一緒にいた時は、すべすべの手だったのに。
顔を見たいけど、我慢するしかない。
そのためにとおるは、孤独と勉強と生活苦に耐えている。
俺よりも、もっともっと頑張っている。
オメガだから身体が弱いのに……。
どうすればいいんだろう。
今となっては、
あのエレベーターに閉じ込められた時が一番幸せだった。
とおるとべったり抱き合って過ごした。
あれが俺の蜜月だった。
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