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第3話
「明日からは武本さんが教えてくれると思うが、
これからも私に分からないこと、困ったことがあれば気軽に声をかけてくれ」
慣れないこと作業へのぎこちなさなどはあったが、一度教えたことをしっかり覚え、疑問に感じたことはきちん質問し、理由や説明を聞いてくれたお陰で教える負担も少なかった。
「今日はお世話になりました、夢乃先輩。
昼食は一緒に摂ることができず、残念でしたが、
この後にでも夢乃先輩のおすすめの店、俺に教えてくれませんか」
満面の笑みを浮かべる荒海の大きな手は、見た目とは裏腹にやはり、ひんやりしている。
きっと人見知りもしない荒海なら、すぐに職場に馴染むだろうな。
「昼間のことなら気にしなくても良い、荒海。
もちろん、荒海が良ければ構わないが、、」
「なるほど、では僕もお供してもよろしいでしょうか。
僕は桜井 翔と言います。
どうぞ、よろしくお願いしますね荒海くん」
ぬるりと気配もなく現れた桜井が目の前に立ち塞がり、荒海と挨拶を交わしている。
桜井の背中で荒海の顔も見えにくい、
それにまだ良いとは言っていないんだが…。
「へぇ、…これはどうも。…桜井さん」
「えぇ、どうも。
ぜひ僕にもどんなことでもお声がけください」
いつになく居丈高な態度をとる桜井に、
少し素っ気なく挨拶をする荒海の様子は何処かおかしい。
「あ~、…2人とも、そろそろ店に行こう
手を同時に離そうな」
無言のまま我慢比べの勝負でもしているのか、
長い間、お互いの手を握りしめている姿にため息をつきながら声をかける。
鞄を手に持ち、エレベーターに向かう。
少し間をあけ、追いついた桜井と荒海の2人の間に挟まれるようにエレベーターを待つ。
普段なら気にもとめないこの待ち時間も、
お互いを値踏みするように、じっと見つめたまま、口も開かない静かな両隣の2人のお陰で、エレベーターの到着が待ち遠しい…。
胃がキリキリとまるで、何かに爪を立てられているように痛む。
軽快な音ともに開いていく扉から顔を覗かせた同僚がぎょっとした顔で、そそくさと隅の方へ身を寄せる。
静かに足元を見つめ、乗り込みボタンを押した。
重苦しい沈黙のなか、そそくさと目的のフロアに
降りていく名前も知らない後ろ姿がほんの少し恨めしい。
密室とはいえ、空間にゆとりはあるというのに肩がぶつかるほど距離が近い2人に不満を言う気力もないが狭い。
ようやく、開いた扉からさっさとエレベーターをあとにする。
昨日、桜井とともに訪れた店は、やめておくか。
胃にも財布にも優しいチェーン店のうどん屋に向かい、店の前に置いてある看板を見る。
「ここのつゆがさっぱりしていて好きなんだ。
私はもう決めているから、2人でゆっくり決めてくれ」
「僕はきつねうどんにします」
「ん〜、俺は天ぷらうどんに決めました」
サッと看板の内容に目を通し決めた2人は、
メニューをちゃんと見て決めたのか。
疑問に思いながらも食券機で券を買い、店内に足を運ぶ。
冷房の効いた店内には温かい湯気にだしのいい匂いが漂う。
隅の方には季節外れのおでんが浸かっている。
普段なら適当にカウンター席を選ぶ。
だが、この2人の間にこれ以上、挟まれるのはごめんだ。
近くのテーブル席を選び、窓側の椅子へ腰掛ける。隣に詰め腰を下ろした桜井には、眉を顰め口角の落ちた顔で見つめる荒海が口を開く前に立ち上がる。
「カウンター席にしよう。
並んで食べたほうがきっと、良い。
よし、さぁ桜井」
丁度良く空いているカウンター席を桜井、自分、荒海の順で並んで腰掛け、駆け寄ってきた店員に券を手渡す。
「桜井も、荒海も仲良くしような。」
「「はい」
揃って返ってきた威勢の良い返事に肩を落とし、
「それで…、荒海は普段、何を食べるのか教えてくれないか」
桜井は放っておいてもとくに問題ないだろう。
ひとまず荒海の方へ視線を向け、適当な話題を振る。
「ん、あ~、、肉も魚ももちろん好きですが、
普段はイカの刺身、ホッケの塩焼きを好んで食べてますね。
今度、俺の家で新鮮なうちに捌いた魚を一緒に食べませんか、夢乃先輩」
頬杖をつき、お冷やが入ったグラスの水滴を指先で突いていた荒海は、少し考えたあと大きく横並びの鋭い歯を見せながら笑い、指先の水滴を弾いた。
「機会があればぜひ、お願いしたいな。
私は…、捌くのも基本的な料理もてんで駄目で」
「ふぅん。そうですか…」
傍らに置かれたメニュー表を眺めていたはずの桜井が抑揚のない声が耳に届く。
まずい…、やはり、はじめは桜井に話題を振るべきだったか…。
きりきり、痛み始めた胃を服の上から押さえる。
「その時は、僕もご一緒しても、もちろん問題ないですよ、ねぇ?荒海くん」
閉じたメニュー表を元の場所に戻した桜井が、
口の端を僅かに上げ、静かな圧を含んだ声で荒海へ声をかける。
「もちろん、俺は全然、構いませんよ。
夢乃先輩、の、ついでに、
どうぞ、いらしてください桜井さん」
ひと言ずつ強調する荒海に首を横に振る。
「どうもありがとうございます、荒海くん。
ぜひ、その時は夢乃さんと伺わせて貰いますね」
そんな荒海を気に留めた様子もなく、変わらない桜井に手元のグラスを握りしめる、
切実に、早くこの2人が注文したものがくることを願う…。
これほどうどんを待ち望んだのは、人生ではじめてだ。
自分の手元に届いたざるうどんを見つめ、
温かいうどんのほうが良かったかもしれない…。
この重苦しい空気から、逃れるようにそんなことを考えた。
「あぁ、夢乃さん。
僕たちのことはお気になさらずに、お先に召し上がってください」
「桜井さんの言うように、俺達は大丈夫ですよ。
夢乃先輩、」
「…ありがとう。」
しばらく悩んだのち、これ以上食欲を失い、食べる気力がなくなる前に食べてしまおうと桜井から渡された箸を受け取る。
胃のことを考え刺激の強いネギはやめておく。
もちもちとした歯ごたえのある食感に、
海苔やごまの味が甘いつゆと合い、するりと食べられる。
この味はなかなか、他の店にはない。
「夢乃先輩、本当に好きなんですねぇ…。
良かったらこの海老、食べますか」。
「ん、あっさりしていて美味しいからな。
いや、良いよ荒海」
荒海の声に箸を止め、水を飲む。
届いたうどんに載っている綺麗に揚げられた海老天を渡そうとしてくる荒海の申し出を断る。
「そうです、荒海くん。
夢乃さんはこのおあげを食べるんです」
「いや、それも大丈夫だ。
ほら、自分で食べなさい」
途端に得意げな顔をし、あげをぐいぐい押し付けてくる桜井にも首を横に振った。
ようやく、食べ始めた2人に内心、ホッとしながら箸をお盆に置く。
はふはふ、息を吐き少しずつうどんを啜る荒海は、どうやら、猫舌のようだ。
美味しそうに食べ進めていく荒海は、
最初に感じた近寄りがたい雰囲気はまったくない。
一方で静かに上品な動作で咀嚼する桜井の表情は、少しも変わっていないように見えるが、纏う雰囲気が先ほどよりも柔らかく食事を楽しんでいることが伝わる。
一時はどうなることかと気が思いやられたが、
こうして少しずつ、親睦を深めていけば仲良く…、
なれる、か?
2人とも食べ終え、店をあとにし、
「私と桜井は奈々駅で電車に乗るが、」
邪魔にならないところに横並びに立ち、
そういえば、荒海の通勤手段を聞いていなかったことを思い出し、慌てて尋ねる。
「夢乃さん、荒海くんは近くの店に用事があるとお話してましたよ」
すんと澄ました顔で落ち着い声のまま、自然と答えた桜井に荒海へ視線を向けた。
もし本当なら荒海には悪いことをしたな、、。
「いえ、俺も奈々駅で電車に乗って自宅に帰るんで、
もし良ければこのまま一緒に向かっても良いですか夢乃先輩」
「もちろん。
そうと決まれば速く電車に向かうか」
建物の間を通り抜け、吹き抜けてくるじめじめと湿った暑い風に眉を顰める。
「それにしてもこの街は、夜でも行き交うたくさんの人間に、
至る所にある明かりで星も満足に見えないですねぇ、…夢乃先輩」
大きな欠伸を片手で隠すように覆い、
足早に通り過ぎていく人たちを怠そうに僅かな身動ぎで避ける荒海は歩くのも大変そうだ。
「あぁ、たしかに見えづらいな、…荒海」
ちらりと見上げた空は、分厚い雲が覆い、満足に月すらも見えない。
そういえば、田舎では暇つぶしによく星や月を眺めていたな。
店と言えるものもなく、夕方には店仕舞いし遠く離れた1台の自販機だけが明るく動いていた。
人が住んでいるのかも、怪しい民家がぽつぽつと、ただ広い田んぼのなか、見える不便なところだったが、。
それでも井戸水に、なにもない風景が好きだった。
頭の中をよぎっていった懐かしい顔ぶれに、
「大丈夫ですか?夢乃さん」
気を取られ立ち止まったところを桜井に肩を軽く叩かれ、ハッとし足を動かす。
狭い路地で足を止めるのは迷惑になる、、。
「あぁ、…少しぼんやりしていた、
ありがとう桜井」
「いえ、きっとお疲れなんですよ。
さァ、もうすぐ駅に着きます、…はやく行きましょう、…荒海くんも」
「へぇ…、わかりましたよ桜井さん」
快活に先を歩く桜井に置いて行かれないように、
荒海と足を動かす。
駅のホームには、すでに乗口に並ぶ人の姿がそこそこにいた。
キィー!錆びついた金属が甲高い音を立て、電車の到着を知らせる。
この音だけはいつも騒々しく、耳鳴りのように
しばらく反響してくるから嫌いだ。
「俺はこの北風方面の電車に乗るので夢乃先輩。
明日からもよろしくお願いします。
次は2人で出掛けましょう」
「また明日、荒海」
到着した電車に乗り込む前に、振り返った荒海の差し出された手を取り握手を交わす。
自分よりも低いひんやりとした荒海の体温はこの暑さには丁度いい。
「乗り遅れますよ、荒海くん。
それではまた、明日もお会いしましょう夢乃さん」
電車の中へ荒海の背中を背後から手荒に押し込んだあとこちらに振り向き、優雅に手を振る桜井に小さく手を振り返す。
そのうち扉が閉まって、何事もなかったように涼しい顔の桜井に対し、真顔の荒海が何かを言っている姿も電車が走り出し、次第に見えなくなった。
到着した電車に乗り込み、つり革に掴まって発車するのを静かに待つ。
「はぁ…。疲れたな」
一仕事、終えたような開放感、伸し掛かる疲労感、
思わずため息がこぼれていく。
あの調子では、当分…仲良くすることは難しいだろうな…。
アナウンスのあと、扉が閉まっていく。
見渡した車内には少し離れた座席で茶色の鞄を持ち、顔を俯かせている草臥れたスーツを着た男性の姿だけで他には誰もこの車両には見えない。
ガタンガタン 動き出すことは分かっているというのに、踏ん張れずに身体が揺れ、
慌てて、何かにぶつからないように力強くつり革を握り、姿勢を戻す。
開かれた扉からじめじめとした湿気を帯びた風が流れ込んでくる。
きっと、夜には雨でも降るかもしれない。
家に着くまで振られないことを祈りながら駅のホームに降りた。
頭上の蛍光灯がカチカチ、不規則に足元を照らしては消えていく。
ゴロゴロと空から聞こえ始めた音に、急ぎ足で家に向かう。
結局、ぽつぽつ、小さく細かい雨に降られ、
肩や鞄についた水滴を玄関でハンカチで軽く拭いて椅子の上に置いた。
あらためて胸ポケットから取り出した桜井のお守りを眺めても健康祈願などの文字すら描かれていない。
ただ、黒い無地の布に通された金の紐、
それと隅の方に白い見事な鷲の姿の刺繍が施されていた。
布越しに少し硬い感触が伝わってくる。
汚さないようにスマホケースのポケットに入れておく。
入浴を済ませたあとは、テレビの騒々しい話し声をかき消すように鳴り響く雷。
カーテンの隙間から激しい音を立てながら、窓に水滴をつけては流れ落ちていく雨にカーテンをそっと閉める。
バラエティ番組から適当なニュース番組に切り替え、椅子に腰掛けた。
「こんばんは、今日のニュースを」
最近の事件から政治家の裏金など重たい話題が少しの感想とともに粛々と読み上げられていく。
明るい話など当たり前だが、ひとつもない。
「それでは、このあとは全国のお天気を」
ようやく聞こえてきた言葉に、テレビ画面へ視線を向ける。
「台風の影響で」
毎年、夏になるたびに話題にのぼる台風の情報を聞き流しながら、明日の天気を確認しテレビの電源を落とす。
雨音を聞くのは嫌いじゃないが、濡れるのはごめんだ。
冷蔵庫から取り出した水のペットボトルを持ち、寝室に向かう。
スマホ、ペットボトルをベット近くのテーブルに置き、枕元近くに桜井から渡された羽根を飾る。
適当に整えた寝具の上に仰向けに寝転ぶ。
柔らかいマットレスに身体が沈んで全身から力が抜けて短い息が漏れてた。
瞼を閉じても、なかなか眠りにつくことができずに、意味もなく寝返りを打っては頭の位置を変える。
これは太陽が昇るほうが早いんじゃないか…。
寝付けないあまり、募る焦りや不安でさらに目が冴えていく。
眠気に疲労はあるというのに、なぜ眠れないのか。
机に置いたスマホを取るために伸ばした手が、うまく届かない。
スマホの画面を見るのは、たしか逆効果になると、どこかで見たな。
ふと思い出した記事を思い出し、結局スマホを取ることを諦め、ひたすらに瞼を閉じる。
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