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陽太と水族館デート 前編
『陽太と水族館デート』
海の中って、どうなっているんだろう。
深海って、どこまで深いんだろう。
何が住んでいて、何が起きているんだろう。
「ひーな」
呼ばれて、顔を上げた。
「またその図鑑読んでたの?」
「うん」
小さな手のひらが、ページをぎゅっと押さえつけている。何度も開いたそこは、力をかけなくともとっくに割れているのだけれど。
「ひなはお魚が好き?」
そう聞かれて、少しだけ考える。魚が好きなのか、海が好きなのか……。
「ねぇお母さん」
「ん?」
「海って、どこまで深いの? ぼくはどこまで見られるかなぁ?」
「海の底が気になるの?」
「うん。海の底って何があるのかな? 本当はどんな生き物がいて、どんな暮らしをしてるんだろう」
そう言って、図鑑に視線を落とした。ここに書いてあることなら、大体理解しているつもりだった。人間が到達出来る深さも、今の時点で分かっている生物も。
けれど、本当は何があるのだろうか……。
気になるね、と璃々子は笑う。
「実はねー、今、ひながすっごく喜ぶもの作ってるんだよ」
「えっ、なになに!?」
「水族館!」
※※※※※
今週の予定を読み上げる雅明の声を、陽太はコーヒーを口にしながら聞いていた。どうせ前日には、また同じ予定を聞かれるのだけれど。
瀬野の本社ビルの最上階。大きな窓から入り込む自然光は、夕暮れを迎えるまで、穏やかに社長室の中を照らす。
秋の紅葉も見頃だ。一度、春陽を招いても良い。景色を見るのは、好きだろうから。それとも、春の桜が良いだろうか……。
「陽太様、聞いていらっしゃいますか?」
「聞いてるよ」
右から左に流してはいたけれど。雅明の声はちゃんと届いている。
「……それから、水族館の改修工事完了報告書が届いております」
数枚の書類を受け取り、ページを捲った。
「再開は何日からだったっけ?」
「再来週の金曜日からですね」
「それまでに見に行くことは可能?」
雅明は陽太のスケジュールに、今一度目を通す。
「この日なら、お時間的に余裕がございますよ」
「じゃあそこはオフで。ひいとはるを連れて行きたいから」
そう言うと、雅明はすぐに携帯を取り出して文字を打ち込み始めた。送信をすると、すぐに二つ、返信が届く。
「陽月様も春陽様も、予定は空いていらっしゃるようですので……。では」
さらさらと手帳にペンを走らせる。
「水族館デート、とでもしておいて」
陽太は残ったコーヒーを飲み干した。
その日の夕食の席で、陽太は改めて陽月と春陽を水族館に誘った。
「行きたい!」
春陽はすぐさまそう答える。けれど、陽月には断られてしまった。
「俺は事務所の方へ行ってくる」
「え? ひい、行かないの?」
少しだけトーンの落ちた春陽の声に、陽月は見ていた書類から視線を上げる。
「こっちの仮決算を先に片付けておかないと、おちおち休んでもいられないからな」
勘定科目が一つでも違えば、決算が大いに狂ってくる。かなり大規模な改装工事をしたので、動いた金額もそれなりだ。
「経理部に任せておけばいいのに」
そんな陽太の言葉に、陽月はため息をついた。
「全部経理部任せで、去年痛い目見ただろ?」
陽太が国内を担い、翔が国外を担っているなら、会社の財政は陽月が担っていた。自身を誇示することのない陽月だが、能力自体は同年代より並外れて高い。財務戦略のみで言えば、陽太よりもずっと優秀だ。
「可哀想に、ひいが鬼の形相で怒ったから、部長泣いてたよね」
思い出したように陽太が笑う。
「……怒ってない。間違ってたから、直しただけ」
「ひいは問答無用でド正論叩きつけるからな」
見てて気持ち良いけど。と付け足すと、陽月はばつが悪そうに書類を置いた。それを横からそっと覗き込んで、春陽は「えっ」と声を上げる。
「ここって、超有名な水族館だよね?」
「うん。多分、国内で一番大きいんじゃないかな? 近くに国立の生体研究所もあるよ」
「うちの……なの?」
「うん」
当然の返事に、えええっ!? と春陽は声を張り上げた。
「知らなかったのか?」
「知らないよそんなの!」
春陽にとっては、雑誌やテレビで何度か特集が組まれていた記憶しかない。あとはデートの定番スポット、とか。
「なら丁度良いね。はるが改装後初めてのお客さんだよ」
「ほ、本当にいいの? 俺で」
「何も知らない方が偏見が入らなくて良いだろ。ひなと楽しんで来いよ」
陽月にそう言われ、陽太に目を配る。にこ、と微笑まれたのが、決定の証拠だ。
「あと、当日は碧生をこっちに貸して?」
陽月に呼ばれ、碧生は「私ですか?」と少々驚きの声を上げた。
「どうせ山のような書類見ることになるだろうから、人手がほしい」
駄目? と聞かれて、春陽は返答に困った。困ったというか、なぜそれを聞かれたのか、分からなかったからだ。
「碧生ははるの執事だからね。主の同意がないと、流石に勝手には連れ出せないよ」
陽太に説明され、そういうことか、と納得する。
「えと……碧くんが良いなら、良いよ」
いつものように曖昧に返事をする。碧生の主として、春陽が決定しなければならない事は分かっている。けれど、まだそこまでの自信が春陽にはない。
「碧生さんは、まだ陽月様のお仕事をご覧になられたことがございませんので、良い機会になるのではないでしょうか?」
颯真が、春陽にそう助言をしてくれる。碧生を見れば、すぐに視線が交わった。どうぞ、春陽様がお決めください――碧生の瞳がそう言っていた。
「な、なら、……碧くんを、お願い……出来ますか?」
辿々しくも、そう決定して陽月に告げる。陽月も、優しい笑みを返して言った。
「もちろん。碧生は俺が預かるよ。ありがとう」
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