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マスカレード(2) 司視点
始業式の前の日、司は校舎の3階にある生徒会室に一人でいた。そう、彼はこの学校の生徒会長。新入生に向けて生徒会の活動を知らせるためのビラを、支給されたノートパソコンで作っていた。天気が良く、開け放った窓から暖かい風が吹き込んでくる。司は椅子に座ったまま背伸びをした。
春休みなのにわざわざ制服を着て学校へ来るなんて、と、司のクラスメイトは眉を顰めるだろう。けれども、司にとってこの生徒会室は居心地が良かった。彼がなりたい自分でいられる場所。それは「生徒会長」という肩書のおかげでもあった。
司は、その大きな体のせいで、よく運動部に誘われていた。運動は嫌いではないが、運動部に入るのは好きではない。あの、体育会系のノリが好きではなかったし、何よりも男の中に混じっていると、自分の異質性を見抜かれる恐れがあった。「男なのに男が好きである」という異質性。
だから、彼は入学するなり生徒会の門を叩いた。ここにいれば運動部に誘われることはないし、近寄りがたい雰囲気も醸し出せる。熱心に生徒会の活動に携わっているうち、彼は会長にまで上り詰めた。
ふと喉の渇きを感じて、司は廊下へと出た。水飲み場へ行くか、それとも1階にある自販機まで行くか、考えあぐねたその時だった。
階段から足音が聞こえて視線を向けると、黒いジャージに身を包んだ、ずんぐりとした男が上がってくるのが見えた。最初は教師の誰かが上がって来たのだろうと思ったが、次の瞬間、司は男の顔を見て硬直した。
そこにいたのは、確かに「マスカレード」で体を交えた男だった。あの顔中を覆う髭や、つぶらで優しげな眼差しを見間違うはずがない。
司は慌てて踵を返し、全力で生徒会室に向けて走り出した。途端に背後で勢いよく追いかけてくる音が聞こえる。生徒会室までもう少し。ドアノブに手をかけた瞬間、司は後ろから強く抱き竦められていた。
男の荒い息遣いが聞こえる。鼻腔をくすぐるツンとした森の香り。そして、甲高い声で
「どうして逃げるんだ? 何か疚しいことでもあるのか?」
と、問いかけられた。
司が何も言えずにいると、男は無理やり自分の方へ向かせた。顔を覗き込んで、ハッとした表情をする。
「兄ちゃん、あの時の……」
どうやら男も気づいたらしい。素顔を見ているのだから当然だろう。しばらく見つめ合ったまま、緊迫した時間が流れた。それでも司は、男を見下ろす形になっているのが気になって仕方なかった。
そこへ、誰かが階段を上ってくる音が聞こえてきた。司が耐えきれずに生徒会室へ入ると、男も一緒に入ってきた。
「兄ちゃんがここの生徒だったとはな」
扉が閉まるなり、男は面白そうに、白い歯を見せてニヤニヤする。さらに司の制服に付けられたバッジを見て
「3年生か。ということは生徒会長だな?」
と推理した。
司の体中に汗が滲む。決して春の陽気のせいではない。
「貴方こそ、何故ここにいるのですか?」
それだけ言うのが精一杯だった。
「俺はここの教師だ」
男は腰に手を当てて胸を張る。だが、司はそんな教師を知らなかった。知っていれば、マスカレードで顔を合わせた時に気づくだろう。そんな司の疑問に先回りするように、男は
「もっとも、着任したのはつい最近だけどな」
と、おどけるように答えた。
「俺、兄ちゃんにもう会えないと思ったんだ。こんな風に再会できて嬉しいな」
男は目を細めて心底嬉しそうな顔をする。
「……僕は嬉しくないです」
司は素っ気なく返した。
「どうして?」
男の土足で踏み込むような態度に腹が立っていた司は、思っていることをそのまま言い放った。
「だって、貴方は僕より背が低いからです」
男は呆気に取られた顔をする。だが、すぐに気を取り直すと逆に問い返してきた。
「兄ちゃん、身長はなんぼだ」
「……175です」
司の答えに男は考え込む。急に真顔になると
「たった5cmじゃないか」
と、拗ねたような口調でのたまった。
「5cmでも僕より背が低いのはイヤなんです」
司も遠慮なく言い放つ。本当は男を傷つけると分かっていても止められない。けれども、男の方がやはり大人だった。距離を詰めて、司を優しく抱き寄せる。
「や、やめてください。ここは学校ですよ」
「バカだな。5cmの差なんて大した問題じゃないだろ?」
男の体温が、司を包み込むようにじんわりと伝わってくる。あの時のように、司は男に甘えてしまいそうだった。それでも目に映るのは男のつむじやおでこ。冷静さを取り戻して声を上げる。
「先生、離れてください」
その言葉で我に返ったのか、男はすぐに司の体から離れた。窓から強い風が吹き込んで、急に肌寒さを感じる。
「そうだったな。今の俺は先生。兄ちゃんは生徒だ」
打って変わって真面目な顔つき。司はこの男がよく分からなくなっていた。
「兄ちゃんは弓岡 っていうのか、下の名前は?」
胸元の名札を見られたことに気づいて、司は慌てて隠す。「もう手遅れだぜ」と男に笑われて、観念したように下の名前を呟いた。
「……司です」
「司か。いい名前だな」
男は感慨深そうに、司の名前を噛みしめているようだった。
「俺は熊谷 刀 って言うんだ。よろしくな」
そう言って右手を差し出してくる。司も釣られて自分の右手を差し出していた。やんわりと、それでもしっかりと握られる。ごつくて厚みのある手のひら。司は刀と名乗る男の優しさに絆されそうになりながらも、胸に沸いた疑問を口にした。
「体育の先生が3階で何をしているのですか? 教官室は体育館の横ですよ?」
「んぁ? 俺は体育教師じゃないぜ」
その言葉に、司はまじまじと刀の体を見つめた。ずんぐりしているとはいえ、盛り上がった肩や厚い胸板、太い腕や脚は運動をやっている者のそれだった。何よりも司の体が全身で逞しさを覚えている。
「来いよ。教えてやるぜ」
握手したままの手を引いて、刀は司を廊下へ連れ出した。そのまま振り向きもせず、ずかずかと歩いていく。司は引っ張られるがままだった。こんなところを誰かに見られたらと思うと気が気でない。
やがて、たどり着いたのは美術室だった。刀は引き戸を開け、慣れた様子で中へと入っていく。そして、キャンバスの前に置かれた丸椅子にドカッと腰を下ろした。
「ここが俺のアトリエ。ま、兄ちゃんたちの美術室でもあるけどな」
そう言って、ニカッと笑う。刀の傍らにある机には、絵筆や絵の具といった画材道具が無造作に置かれていた。どれも使い込まれているのが、美術に疎い司でも分かる。
「じゃあ、何でジャージを着ているんですか?」
「そりゃ、絵の具や油で汚れるからに決まっているだろ? スーツなんか着ていられるか」
そう言って、刀はキャップの外れた瓶を取り出し、窓から差し込む光にかざす。中身はほとんど残っていないようだった。
「ターペンタインが切れているな」
刀が瓶を揺らすと、辺りにツンとした森の香りが漂った。司は、それが刀の匂いの正体だと気づく。
「絵を描くことが好きなんですね」
「ああ、嫌なことがあっても、忘れて夢中になれるからな」
そこまで夢中になれるものがある刀を、司はうらやましく思った。けれども、目の前のキャンバスはまだ真っ白。司の視線に気づいて、刀はポリポリと頭を掻く。
「まだ描きたいものが思い浮かばないんだ」
慣れた手つきで絵筆を取り出し、何かを測るようにまっすぐ立てる。しばらく、司がいるのを忘れたかのように考えあぐねていたが、ふと思い立ったように顔を上げた。
「そうだ。司を描いてみたいな」
突然の提案に司は戸惑う。
「僕なんか描いたって面白くないですよ。それに、生徒を描いたら怪しまれるじゃないですか」
「別に平気さ。前の学校でも生徒をモデルにしたことがあったからな」
刀の言葉に司の胸がざわめく。
「……その生徒のこと、好きだったんですね」
どうして、そんなことを口走ったのか分からない。刀はきょとんとした顔をしている。司は次第に、そんな自分がいたたまれなくなってきた。
「生徒会室に戻りますね。やりかけの仕事があるんです」
そう言って、刀の言葉を待たずに踵を返す。美術室を出る時、刀が
「やっぱり司を描きたいな」
とダメ押ししたように聞こえたが、振り返らずに引き戸を閉めた。
生徒会室に戻って、力が抜けたように椅子へ凭れる。刀は追いかけて来なかった。ホッとしている反面、どこか物足りなさを感じている自分もいた。
「一体、僕はどうしてしまったのだろう……」
そんな司の呟きは、誰にも聞かれぬまま、窓の外へと零れていった。
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