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マスカレード(3) 司視点
始業式が終わり、司は日常を取り戻しつつあった。朝の光が、通学路を眩しく照らす。校門に差しかかると、刀が腕を組んで仁王立ちしているのが見えた。生徒が校則違反の服装をしていないか、見張っているのだろう。その姿は、強面な風貌によく似合っていた。
昨日の刀は、スーツを着ていた。サイズが合っておらず、留めたボタンが今にも外れそうだった。クラスメイトたちは美術教師であることに驚いていたし、名前のとおり熊みたいだとも言っていた。そんなことを思い出して、思わず司の口元が緩んでしまう。
唇を噛みしめて、刀の横を通り過ぎた。できるだけ目立たないように、さりげなく。挨拶だけを残して。けれども、次の瞬間、刀が司の腕を掴んだ。司は思わず体を強張らせる。
「弓岡!」
声をかけられて恐る恐る振り向く。刀は怒っているような顔をしていたが、つぶらな瞳の奥は笑っていることに気づいた。
「猫背になっているぞ。まっすぐ伸ばさなきゃダメだ」
そう言って、刀は背筋をなぞる。甘い痺れが司の中を駆け抜けた。
「よ、余計なお世話です」
相手は先生なのに、つい生意気な口を聞いてしまう。周りの生徒たちに不審がられないか、気が気でなかった。
「ほら。姿勢が良いと見映えも良くなって、さらに男前になるぞ」
刀に優しく背中を押され、司は校門を通り抜ける。抗議したくて振り向くと、刀はすでに詰襟のカラーを外していた男子生徒を注意している最中だった。
司はつまらなさそうに前を向く。確かに、子どもの頃から背の高さがコンプレックスであり、無意識に背中を丸めるのが癖になっていた。
「男前になる、か……」
司はもう一度背筋を伸ばしてみた。いつもより一段高いところから見下ろしているような気分になる。けれども、こんな時に刀はどう見えるのだろうと思った途端、司の脳裏には見慣れたつむじやおでこが過った。
結局、教室へ入る頃には、いつもの猫背に戻っていた。
※
この日の2時限目は体育だった。司は教室でジャージに着替え、グラウンドに向かっていた。
「何だと、この野郎!」
突然、甲高い怒鳴り声が聞こえ、移動していた生徒たちが振り向く。校門の前で、刀と一人の生徒が取っ組み合いをしているのが見えた。
授業があることも忘れ、司は校門に向かって走り出していた。そして、二人の間に割って入る。
「やめろ、相川 」
刀を庇うように立ち、自分より背の高い生徒、相川の胸を押して留めようとする。この進学校で唯一の不良。ケンカっ早くて、いつも顔のどこかに絆創膏を貼っていた。けれども、顔つきは少年のようにあどけない。
「生徒会長のお出ましか。相変わらず良い子ぶりやがって」
相川は、唾を吐き捨てるかのように悪態をつき、ソッポを向いた。
「今度、誰かに手を出したら、この学校にいられなくなることは、自分でも分かっているだろ」
司は、あくまでも穏やかな声で諭そうとする。
「うるせぇ。てめえの説教なんてうんざりだ」
そう言い残すと相川は背中を向け、校舎に向かって歩き始めた。それを追うように
「おい。まだ話は終わってないぞ!」
と、刀が怒鳴りつける。司は刀を抱きしめて、身動きが取れないようにした。薄いジャージ越しに、自分よりも熱い体温と筋肉の躍動、ターペンタインの匂いが生々しく伝わってきて、マスカレードでの出来事が蘇る。静けさの中で、やけに二つの鼓動だけが大きく響いているような気がした。
その時、相川が振り返り、汚いものを見たかのような目つきで二人を一瞥したのを、司は見逃さなかった。他の教師たちが駆けつける音も聞こえる。司は慌てて体を離した。
「何の騒ぎかね」
先頭に立っていたのは校長だった。弱々しい年寄りのような風貌。それでも、威厳のある態度で精一杯胸を張る。
「堂々と遅刻してきたのを咎めたら、急に首元を掴まれたんだ。それで……」
刀が最後まで言い終わらないうちに、校長は手で制した。
「続きは職員室で聞こう」
そう言って、踵を返して歩き出す。刀はその場に突っ立っていたが、他の教師に「熊谷先生!」と促されて、渋々付いていった。司は気遣わしげにその様子を見ていたが、「弓岡は授業に戻りなさい」と言われて、立ち去らざるを得なかった。
※
昼休みになり、司は塾の予習でもしようと、持ってきた参考書を開いた。あいうえお順に割り当てられた席は窓側。春の陽気を感じながらページをめくる。
その時、勢いよく教室の引き戸が開けられ、相川が入ってきた。まっすぐ司のところへ向かってくる。威嚇するような大きい足音。他の生徒たちが、脇に避けて道を作った。
「生徒会長さんよ。昼休みなのに勉強か」
司は参考書を閉じて、相川と向き合う。かすかに指が震えているのが、自分でも分かった。
「何の用だ」
相川は意味深な笑みを浮かべている。細められた瞳がぎらついていた。
「あの熊野郎と、どんな関係なんだ?」
質問の意図が分からず、司は言葉を選んで答える。
「ただの生徒と美術の先生だ」
「そうか? さっきは抱きつきながら蕩けそうな顔をしていたぜ?」
司の体に汗が滲む。子どもの頃から、相川は意外と勘が鋭かった。だからと言って、動揺を悟られてはいけない。ふと、こんな時、刀ならどう返すだろうと考えてみた。
「興味あるのか?」
努めて笑顔を見せる。相川は拍子抜けしたような顔をした。
「バカ野郎。俺は女にしか興味が無いんだ。ホモなんて気持ち悪い」
「だが、そう見えたということは興味があるのだろ?」
「うるせぇ。俺をホモにするな!」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がると、相川はずかずかと教室を出ていった。後に残るのは静寂だけ。そして、いつもの昼休みが戻ってきた。
司は安堵しながら、心の中で刀に感謝した。そう言えば、今頃どうしているのだろう。急に刀のことが気になり出した。けれども、わざわざ美術室へ行くわけにはいかない。相川に見られたら、それこそただならぬ関係だとバレてしまうだろう。
もう一度、参考書を開く。結局、昼休みが終わるまで、中身はちっとも頭に入らなかった。
※
黄昏が校舎を染める頃、司はまだ生徒会室にいた。いつもなら、塾へ行くために家で着替えて、軽く何かを口にしている頃。けれども、今日は学校から直行しようと考えていた。
生徒会室には誰もいない。相川もとっくに帰っただろう。司は意を決して立ち上がった。向かうところは決まっている。
廊下に誰もいないのを確認して、美術室の引き戸をノックする。「どうぞ」と甲高い声が聞こえて、司はためらいがちに開けた。
「司……」
顔を上げた刀は、一瞬驚きを浮かべ、すぐに喜びを露わにした。つい、司も笑みが零れてしまう。
「会いに来てくれたのか嬉しいなぁ」
立ち上がった刀は司に歩み寄り、力強く抱きしめた。硬く締まる腕。司は
「せ、先生、ダメです。離れてください」
と、もがいた。
「どうして?」
問いかける刀の顔が、今にも唇が触れんばかりに近い。そこで、司は昼休みの相川の言葉を思い出した。
「相川に疑われたんです。おまえたちホモなのかって」
「……それで、何て言ったんだ?」
刀は渋い顔をする。
「先生なら、何て言うかなって思ったんです」
そして、興味あるのかと逆に尋ねたことを伝えた。
「さすが、司だ。俺もそう言っただろう」
刀は心底嬉しそうな顔をする。
「女にしか興味が無いって言われましたけど」
「俺は司がいれば十分だ」
刀は満足げに司を見上げる。それがいたたまれなくて、司は自分から体を離した。
「相川は僕の幼馴染なんです。昔はあんな奴じゃなかった。でも、両親が離婚してから、悪い友だちと付き合うようになって……」
司は、相川について知っていることを余さず刀に教えた。その方が指導しやすいだろうと思ったし、むやみに突っかかって、あんな危ない目にも遭ってほしくなかった。
一通り聞き終えると、刀は腕を組んで考え込んでいたが
「それでも立ち直らせるのが俺の役割だ」
と、一層やる気になった表情を見せた。
「先生!」
「司が心配してくれるのは嬉しい。でも、俺は相川を無事に卒業させてやりたいんだ」
真剣な眼差し。決意は固いように見えた。
「これからも遅刻したり、逆らったりしたら、何度でも注意してやる。腕っぷしは強いんだぜ」
そう言って、刀はニヤリと笑い、握りこぶしを作って見せる。司は、なぜ刀がそこまで相川に執着するのか分からなかった。そんな司の疑問に気づいたかのように
「俺、後悔したくないんだ。恋も仕事も」
と刀はポツリ呟いた。
「20代の頃、俺は遠慮ばかりして何度も失敗してきたんだ。もう何もしないで後悔するのはイヤだ。だから司を愛したいし、相川も立ち直らせたい」
傍から見ると無遠慮に見える行為も、そういった過去があるからなのだと司は気づく。ただ、相川と両天秤にかけられたことが気になった。
「もし、どちらか選べと言われたら?」
自分でも思いがけない問いかけに司は戸惑う。刀に選ばれたって嬉しくないはずなのに。
「俺は……」
刀が口を開いた瞬間、司は踵を返した。
「塾があるので、失礼します」
そして、続きを聞かないうちに美術室を出た。なるべく早足で遠ざかる。けれども
「相川を選ぶと言われたら僕は……」
そんな考えが脳裏を過って、次第に歩みが遅くなる。それで良いではないか、刀は背が5cm低いのだから。そう言い聞かせても、心の中に広がった黒い靄は消えそうになかった。
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