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五月雨は緑色(3) 刀視点

 刀は校門の前に立っていた。校舎の時計は10時を指している。  すべての生徒が登校しているはずだった。ただ一人を除いて。3年生の相川 (ながれ)だけが、まだ登校していない。おそらく寝坊しているか、どこかのパチンコ店にふらりと寄っているのだろう。  相川を熱心に指導する刀を、他の教師たちはやり過ぎだという。自分の仕事もあるのだから、ほどほどにしなさいと。けれども、そうやって相川を見捨てるのは刀自身が許さなかった。  いつか、司から聞かされた相川の過去。相川だって自分の居場所を探してもがいているのだろう。そして、それはまだ見つかっていないようだった。だから、気が向いた時に登校してくる。  そんな相川でも、登校を待ち望んでいる存在が一人でもいることを分からせてやりたかった。自分だって司という居場所を見つけられて幸せだったから。このまま何もせずに退学させてしまったら、永遠に後悔するかもしれない。 「なんだ、熊先生いたのか。授業をほったらかしにしていいのか?」  棘のある声に振り向くと、相川が10cm高いところから刀を見下ろしていた。制服の前ボタンは開けたまま。赤い丸首のシャツが眩しい。血のようなローズマダー。ズボンの裾もダボダボして、今にも踏みつけそうだった。 「おまえを指導するのが俺の役目だ」  そう言って、刀は相川の制服を直そうとする。その手を相川が忌々しげに払った。 「余計なことをするなよ。ホモ野郎」 「何だと……」  刀は、それがいつもの憎まれ口だと思っていた。けれども、相川の眼差しが何か含みを持たせたように卑しく細められる。 「俺、見たんだ。雨の日に美術室でアンタと弓岡がキスしてたのを」  しまった! と刀は焦る。体中の汗が一気に噴き出したように感じられた。長い沈黙が流れる。何と言おうか考えあぐねていた時、ふと司の言葉が脳裏を過った。 「なんだ、興味あるのか?」  相川は拍子抜けしたような顔をする。 「あるわけないだろ! 俺にはコレがいるんだ」  そう言って小指を突き立てた。 「俺に構ってる暇があるなら、司を構ってやれって言いたいんだ」  どうやら相川は脅すつもりが無いらしい。刀は気づかれないように安堵した。 「十分、構ってやってるつもりだぜ」  余裕を見せた刀に不意打ちの軽いジャブが飛んでくる。 「何しやがる! 今度、誰かを殴ったら退学だと言われているだろうが」  頬を押さえながら刀が相川を見ると、打って変わって真剣な眼差しをしていた。どこか怒っているようにも見える。 「俺、子どもの頃からあいつのそばにいたから分かるんだよ。司はいつも自分の気持ちを押し殺しているんだ。アンタ、本当の司が分かっているのか?」  そう言われると刀は自信が無い。いつも、欲望のままに司を求め、甘えてきた。どちらが大人なのか分からないくらい。デッサンするほど、本当の司が見えなくなってしまう。 「あーあ、てめぇが変なことを言うから彼女に会いたくなったじゃねぇか。今日は帰るぜ」  相川が踵を返す。 「おい、待て。相川!」  声とは裏腹に、刀の足は動かなかった。司のことを考えると次第に俯き加減になってしまう。抱いただけで満足させたような気でいる浅はかな男にはなりたくない。 「俺は司に何か与えてきたんだろうか……」  そんな呟きがほろりと零れ落ちた。 ※  仕事帰り。刀は行きつけの画材店にいた。目の前の棚には、油絵具が並ぶ。  あの後、刀は司が何をすれば喜ぶか、ずっと考えていた。プレゼント? 欲しい物を尋ねるのは、おねだりさせているような気がしたし、自分で決めて渡すのは押しつけがましいだろう。気が済むまでそばにいたり、一緒に食事したり、ドライブしたりするのは、司の立場上、難しかった。  ならば、司自身さえ知らなかった素顔を描くのが、美術教師である以前に一人の絵描きである自分にできるサプライズだろう。  司の素顔を描くには何色が良いか。瞼を閉じて思い浮かぶのは、少年のあどけなさを残した赤い頬。その時、どうしてキャンバスを緑色に塗ったのか気づく。緑は赤の補色なのだ。  刀は赤の絵の具に手を伸ばす。カドミウムでは重すぎるし、クリムゾンじゃ暗すぎた。相川が着ていた丸首シャツのレッドマダーでもない。司には、もっと鮮烈で神聖な赤が相応しいと思った。  刀の指がバーミリオンの前で止まる。硫化水銀で作られた毒のある赤。司の奥底に潜む、無意識に刀を狂わせる毒と重なる。 「5,000円か……」  値札を見てため息をつく。刀の懐は豊かじゃない。給料は多くないし、ほとんどは画材道具やジムの会費、自動車ローンの返済に消えてしまう。それでも……。  刀はバーミリオンの絵の具を握りしめてレジへ向かった。司のためなら、これくらい安いものだ。頬の赤みや血管、肌の隠し色……使い道はいくらでも思い浮かぶ。 「待ってろよ、司。最高の一枚を捧げてやるぜ」  画材店を出た刀は、決意も新たに肩を大きく揺らして歩き出すのだった。

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