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傘がない(1) 司視点
6月最初の日曜日。司は刀の部屋にいた。ここに来るのは何度目になるのか。愛し合った後で、逞しい腕に抱かれながら、窓の外を眺めていた。
遠くで雷鳴が聞こえる。次第に空は暗くなり、今にもひと雨来そうだった。
「梅雨が近いな」
刀がポツリと呟く。
「分かるのですか?」
「ああ、湿気には敏感だからな。多すぎると油絵が乾かないんだよ」
美術の教師であり、一人の絵描きでもある刀らしい言葉だった。司が尊敬の眼差しで見つめると、覆い被さるように唇が重ねられた。降り始めた雨が窓を叩く音が聞こえる。
「傘は持ってきたのか?」
司は首を横に振る。天気予報を信じて持ってこなかった。
「じゃあ、俺のを貸してやるよ」
そう言って、刀は傘を差し出す。よくある紺色の傘。他に傘は見当たらない。
「先生はどうするのですか? 濡れちゃうじゃないですか」
「俺は車があるからいいんだよ。本当は司を送っていけたらいいんだけどな」
二人の関係は秘密にしている。もちろん、司の両親にも。今日、ここに来るのだって、友達のところへ行くと嘘をついていた。受験勉強のおかげで「彼女は?」と聞かれないのが幸いだった。
「大丈夫ですよ。今度、返しますね」
「気が向いた時でいいぜ。どうしても必要になったらコンビニで買うからさ」
もう帰る時間だった。司が袖に腕を通すのを、刀は名残惜しそうに見つめる。そして、別れ際にもう一度きつく抱きしめてきた。5cm低い体で精一杯しがみついてくる。
「明日、学校で会えますよ」
「……大人なんだな」
刀が拗ねた顔をする。司は微笑みながら、自分から唇を重ねた。長い口づけはタイムロスになる。それでも二人は気が済むまで体を離そうとしなかった。
※
次の日、司は3階の進路指導室にいた。棚に並ぶ受験の資料を眺めながら、この後の面談で何と答えようか考えていた。
6月にもなると、志望校を確定させなければいけない。けれども、司はこれと言って行きたいところが無かった。むしろ、進学が決まったらこの街を離れなければならず、刀とも簡単に会えなくなる。そんな心配が頭の中を占めていた。
距離が離れても同じ想いでいられるか、司は自信が無かった。刀だって、いつまでも自分を気にかけてくれるとは限らないだろう。
その時、引き戸が勢いよく開いて刀が入ってきた。予期せぬ出来事に司は困惑する。
「やっぱり司だ」
刀は満面の笑みを浮かべていた。
「どうしてここにいるのが分かったのですか?」
「ガラス越しに見えたんだよ。俺の視力は2.0なんだ。絶対に見間違わないぜ」
廊下に面した明かり取りの窓は、プライバシー保護のため、すりガラスになっている。それでも分かったのだから、よほど視力が良いのだろうと司は感心した。
「何をしてるんだ?」
「これから担任と面談なんです。進学の」
「そうか。もうそんな時期なんだな」
刀は腰に手を当てて胸を張った。開かれた体から、ターペンタインの匂いが漂う。どこか寂しげな表情。
「司は頭が良いから、選びたい放題だな」
口元はニンマリとしているが、目は笑っていなかった。もしかしたら刀も別れの予感に怯えているのかもしれない。そう、司は期待した。
「僕は……」
と言いかけた時、引き戸が開いて担任が入ってくる。眼鏡をかけた理知的な数学の教師。
「ああ、弓岡。待たせたな」
そう言って担任は、何故か進路指導室にいる刀を怪訝そうな眼差しで見やった。
「熊谷先生。何故ここに?」
「い、いや~、相川の就職先でも探してやろうと思ったんだ」
確かに、この進路指導室には進学だけでなく就職についての資料も揃っている。
「まだ就職先を決めるのは早いですよ」
「そ、そうだよな。6月だもんな」
刀は気まずそうに頭をポリポリと掻いた。司はそのやり取りを見てヒヤヒヤする。
「それじゃ、俺はこれで」
「熊谷先生!」
刀が踵を返すなり、担任が呼び止めた。今度は刀が怪訝そうな表情で振り向く。
「そろそろ髭を剃ったらどうですか? 校長先生から何度も注意されていますよね?」
刀は思案顔で髭をさする。聞き入れる気は、これっぽっちも無さそうだった。しびれを切らした担任が司に問いかける。
「弓岡はどう思う? 不潔で汚らしいよな?」
刀と目が合う。自信ありげな顔をしてるかと思ったら、意外と不安を露わにしていた。これではからかうこともできやしない。
「……僕は似合っていると思います」
途端に刀の顔がパーッと明るくなる。
「生徒会長さん、ありがとよ」
そう言い残して、進路相談室を出ていってしまった。
気まずい沈黙が流れる。担任は無言で司を責めているようだった。
「……申し訳ございません」
「別に気を使わなくて良かったんだぞ。ただ……」
「ただ、どうしたのですか?」
「いや、何でもないんだ。面談を始めよう」
担任が先に席へつく。司は話の続きが気になったが、後に続いた。担任が資料を広げる。そこには先日の模擬試験の結果が書かれていた。
「これくらいの成績なら、上位校を余裕で狙えるぞ」
担任は大学の名前を次々と挙げる。多くの生徒が憧れるところばかり。学校にとっても、卒業者が進学したら箔がつくだろう。けれども、司はどこにも興味を持てずにいた。先ほどの、不安を露わにしていた刀の顔が過る。
「僕は地元の大学へ行こうかと……」
「弓岡」
担任は窘めるように司の言葉を止めた。
「あんな偏差値の低いところへ行ったって、大学を卒業したという肩書しか付かないぞ。それとも、家庭の事情でもあるのか? 話してごらんなさい」
そんなものは無かった。両親とも、司の成績に満足し、担任が挙げた大学への進学を望んでいる。
結局、最低でもGMARCH、できれば旧七帝大を目指そうということで、面談は終わってしまった。司は何も言い返せなかった。担任は立ち上がろうとして、ふと言葉を漏らす。
「まったく、熊谷先生には困ったものだ。来週には見合いが控えているというのに」
「見合い?」
司は初めて聞いた。昨日だって、一緒に部屋で過ごしたのに、刀はそんなことを一言も口にしなかった。
「熊谷先生も三十代だろ。独身だから、だらしないんじゃないかって、校長が持ちかけたんだ」
だらしないと言われて、司は内心ムッとする。細かいことに気を遣わない大らかさが刀の魅力なのに。
「弓岡が生徒会長だから話したんだ。誰にも言うなよ」
担任は、自分の唇に指を当てて念押しする。司も頷くしかなかった。
二人で進路指導室を出る。今日は塾があるから、美術室でモデルをする予定はなかった。
「なぜ、先生は見合いの話をしてくれないのだろう」
そんな不安が胸を過る。もしかしたら、本当に結婚する気なのだろうか。確かに年齢は司の2倍なのだ。考えていたとしても不思議ではない。刀なら良い父親になれるだろう。
足が美術室へ向かいそうになる。思いっきり笑い飛ばしてほしい。そして、俺は司を愛してると言ってほしい。けれども、それは刀の幸せを妨げるような気がした。
「どうせ、僕は3月になったらいなくなってしまうのだから……」
司はため息をついて、階段を下り始めた。
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