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傘がない(2) 司視点 性描写有

「弓岡? 弓岡!」  耳元で大声を出されて、司は我に返る。横を向くと担任が気遣わしげな顔をして司を見ていた。外は予報外れの雨が降っている。梅雨の始まり。刀の声が頭の中を過った。 「今日二度目だぞ。一体どうしたんだ?」 「す、済みません。考え事をしていて……」 「まぁ、いい。黒板の問題を解いてくれ」  そう言って、担任は黒板を指差す。そこには微分の難しい問題が書かれていた。司はスラスラとチョークを走らせる。幸い、塾ですでに学習していた解き方だった。他の生徒たちからどよめきが起こる。  席に戻ろうとする司を担任が呼び止めた。 「……あとで、職員室に来なさい」  司は「はい」と返事するしかなかった。  刀の見合い話を聞いてから1週間。まったく勉強に身が入らず、塾の模擬試験も散々な結果に終わった。これではGMARCHどころの話ではない。  講師や自分の親が心配するのを、司はいつもの真面目な良い子の顔で取りなした。「次こそは頑張ります」と言って。それでも刀が見合いをするという事実は拭えなかった。  あれから刀には会えていない。美術の授業では、相川を指導するという名目ですぐにいなくなってしまう。今日は絵のモデルをするという約束をしている。そこで少しでも見合いの話を聞けたらと思った。たとえ喜んでいたとしても、決して怒りはしないから。  授業の後、司は職員室の引き戸を開けた。手招きされて、隣の椅子に腰を下ろす。 「弓岡、一体どうしたんだ? 様子がおかしいぞ」 「そ、そうでしょうか」 「授業中に指名しても上の空だ。しかも一回だけじゃない。具合でも悪いのか?」  司は首を横に振る。もちろん、原因は分かっていた。けれども、担任には言えない。 「寝不足なのかもしれません。毎日遅くまで勉強してますから」  寝不足なのは本当だが、遅くまで勉強しているわけではなかった。刀のことばかり考えて眠れない夜が続いている。 「弓岡は真面目だから、すぐに根を詰めてしまう。進学したい気持ちはよく分かるが、体を壊したら台無しになるぞ」  どうやら、担任は司の言葉を額面どおりに受け取ってくれたようだった。本気で心配しているみたいで、申し訳ない気持ちになってしまう。  その時、職員室の引き戸が勢いよく開いて、刀が入ってきた。引き攣った顔をして、奥にある校長室へと入る。司は思わず目で追ってしまった。 「まったく、熊谷先生は……。相変わらず汚らしい格好をして」  絵の具で汚れた刀のジャージを見て、担任が忌々しげに呟く。おそらく見合いのことで校長と打ち合わせをするのだろう。司は露骨に顔を曇らせた。  話が終わり、去り際に司は校長室の扉に目をやる。本当は何を話しているのか聞きたいし、このまま刀が出てくるまで待っていたい。けれども、そんな気持ちを引き裂くように、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。 ※  放課後。外はまだ雨が降っていた。司は遠慮がちに美術室の引き戸を開ける。刀はいたが、絵とは違う何かに熱中していた。司が椅子に腰を下ろすなり、申し訳なさそうに切り出す。 「済まねぇが。今日は絵を描けないんだ」 「……どうしてですか?」  司の肖像画には布がかけられたままだった。 「校長の野郎。俺が新任だからって、全校生徒の所見を明日までに出せって言いやがるんだ。パソコンの入力は苦手なんだよ……」  刀の机には書類が山積みになっている。ノートパソコンのモニターが放つ光が、明かりをつけても薄暗い美術室を妖しく照らしていた。 「まったく、あのジジイ……」  司の前だからなのか、刀は遠慮なく校長の悪口を言う。その気安さに少し安堵した。けれども、司の方には顔を向けてくれない。やはり見合いを控えて気まずいのだろうか。 「邪魔したら悪いから帰りますね」  そう言って、司は席を立つ。刀は引き留めようとしなかった。書類と向き合ったまま声をかけてくる。 「雨、降ってるぞ。傘は持ってるのか?」 「……はい。持ってます」  嘘だった。天気予報を信じて、手ぶらで来てしまった。刀から借りた紺色の傘は家にある。 「そうか。気をつけて帰るんだぞ」  その言葉を合図に、司は踵を返して美術室を出る。そのまま逃げるように、1階まで駆け下りた。意を決して、玄関から雨の中へ飛び出してゆく。  思ったよりも雨は冷たかった。すぐにシャツまで濡れて肌寒さを感じる。最初こそ勢いよく走ったものの、次第に足取りは重くなっていった。 「先生。もう僕のことはどうでも良くなったのかな……」  独り言と一緒に涙が零れる。他の生徒が通り過ぎても、雨のせいで誰も気づかない。  その時、司は自分の名前を呼ばれたような気がした。振り向くと、美術室の窓を開けて、刀が何か叫んでいるのが見える。雨音に紛れて聞き取れないが、呼び止めてくれたのが嬉しかった。それでも……。 「邪魔しちゃいけない。先生は忙しいのだから」  そう思った瞬間、司は再び雨の中を駆け出していた。呼ぶ声が追いかけて来ないように、できるだけ遠くへと逃げる。 「こんなことしたら、嫌われちゃうね」  それで良いと思った。刀が誰かと幸せになるためなら。学校が見えなくなった頃、司はずぶ濡れになりながら一人で泣いていた。 ※  司が家に帰ると、母親が 「どうして濡れながら帰ってきたの? 連絡をくれたら迎えに行ったのに……」 と狼狽えながらも風呂を用意すると言ってくれた。お湯が張られるまでの間、司は自分の部屋で濡れた衣服を脱ぎ捨てハンガーにかける。  全裸になると、ポーズを変えながら姿見に写してみた。こんな風に自分の体と向き合うのは久しぶりかもしれない。受験勉強で運動不足だから、余分な肉が多い。お腹なんか年齢の割にポッコリしている。よく刀の裸を見て 「先生、お腹ポッコリしてるよ」 と、からかっていたが、人のことを言える立場ではない。 「俺は司の体が大好きだ。もちろん性格もな」  こんな自分でも、いつだって刀は優しく受け入れてくれた。小さな体を精一杯大きく見せて、甘やかしてくれた。かけてくれる言葉の一つひとつが、司の心を甘く溶かしてくれた。代わりなんていやしない。  このところ、慰めを知らなかった股間が屹立してる。司はベッドに横たわり、自分で扱き始めた。目を閉じると思い浮かぶのは刀の顔ばかり。笑った顔、誇らしげな顔、寂しげな顔、不安そうな顔……。そのどれもが愛おしかった。  あっという間に絶頂に達して、勢いよく噴き上げる。胸や腹だけでなく、顔まで飛び散ってしまった。刀に見せたら「元気だな」と、さぞかし喜んでくれただろう。けれども、果てた体は冷えてゆくだけ。荒い呼吸が部屋の中でやけに響いていた。 「先生。僕はやっぱり貴方が好きだよ」  それが司の偽らざる気持ちだった。

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