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傘がない(3) 司視点
朝になると雨は止み、いつものように刀が校門で生徒指導を行っていた。それを見て、司の足が竦む。
いつまでも入れずに躊躇していると、刀の方から歩み寄ってきた。何も言わず、司のおでこに手のひらを当てる。ぬくもりが伝わってきて、つい身を任せたくなった。
「熱は無いようだな」
安心した表情。けれども、すぐに険しくなった。少し怒っているようにも見える。
「どうして、嘘をついたんだ?」
司は何も言えない。嘘をついているのは先生じゃないですか? と、言いたげな瞳で見つめ返す。
「おい、ホモ野郎ども。朝から見つめ合っているんじゃねぇよ!」
急に棘のある怒鳴り声が聞こえて、二人は慌てて体を離す。振り向くと、そこには相川が機嫌悪そうに立っていた。
「お、おぅ。相川、早いじゃねぇか」
刀が気まずそうに応える。
「時間どおりに来ちゃ悪いのかよ」
「そんなことはないぞ。偉い偉い」
刀が相川に気を取られているうちに、司は静かにその場を去った。しかし、その後を足音が追いかけてきた。慌てて足を速めるが、すぐに捕まってしまった。
「逃げるなよ、生徒会長さん」
追いかけてきたのは相川だった。刀じゃなくて司はホッとする。相川は馴れ馴れしく司の肩に腕を回してきた。
「ん、目の下にクマができてるじゃないか? 熊野郎のせいで寝不足なのか」
図星だった。司は何も言い返せない
「あいつ、また一発殴って目を覚ましてやらなきゃいけないな」
そう言って、相川は刀がいる方向へパンチを繰り出す。
「よしてくれ。熊谷先生だって、自分のことで精一杯なんだ」
「精一杯? どういうことだ」
答えられずにいると、相川は
「やっぱり、あの野郎を一発殴ってくるわ」
と踵を返した。司は体にしがみついて止める。
「やめろ。男がベタベタするんじゃねぇ!」
相川の大声に他の生徒たちが振り向く。
「分かった。すべて話すから」
結局、司は相川を生徒会室へ連れ込み、すべて話さざるを得なくなった。
「ふ~ん、見合いか」
話を終えると、相川はつまらなさそうな顔をした。
「あいつも結局は世間体を気にするんだな。見損なったぜ」
「先生だって、結婚して子どもが欲しいんだよ」
「で、弓岡はどうなんだよ。引き留めないのか?」
相川に横目で問いかけられる。幼馴染の気安さから、司はポツリポツリと言葉を紡いだ。
「引き留めたいけど、僕だって3月が終わるといなくなるんだ。先生を縛る権利なんて無いだろ?」
相川は大げさにおでこを手のひらで押さえてみせた。
「あーっ。俺、おまえのそういうところ嫌いなんだよね」
「そういうところって……」
「何でも自分が我慢すりゃいいって思ってるだろ? それでおまえ幸せか?」
もちろん、幸せではなかった。けれども、誰かを不幸にしてまで幸せになりたいとは思わない。答えに躊躇しているとチャイムが鳴る。
「さぁ、教室へ行こう。1時限目から相川がいると、みんな驚くぞ」
「なんだ、急にいたずらっ子みたいな顔して」
生徒会室の扉を開ける前、相川は急に立ち止まった。
「熊野郎に自分の気持ちをぶつけなきゃダメだぞ。おまえが言えないなら、俺が言ってやる」
真剣な顔つき。それは、司が子どもの頃に、いじめっ子から庇ってくれたことを思い出させた。
「ありがとう。相川は優しいんだな」
自分がどんな顔をして相川を見たのかは知らない。相川は真っ赤な顔をして生徒会室を出ていった。
「バカ野郎。俺はホモじゃないっつうの」
と捨て台詞を残して。
※
司は美術室の前にいた。明かりは点いているから、刀は中にいるのだろう。外は昼過ぎから雨が降っていた。まるで耳元で降っているかのように、雨音が大きく響いている。
入るのを躊躇してどれくらい経ったのか。深呼吸をして引き戸に手をかける。なんだか、いつもより重く感じられた。
「司……」
司の姿を見るなり、刀は立ち上がり駆け寄ってきた。引き戸が閉まると同時に強く抱きしめてくる。
「会いに来てくれて、ありがとう。嬉しいよ」
切羽詰まった表情で見上げてきた。今度は司が腕を回し、刀の体温を全身で感じる。
体が離れると、刀はまくし立てるように話し始めた。
「俺、司のことなら何でも分かっているつもりでいたんだ。けれども、昨日はあんな風に嘘をつかれてショックだった」
心底、傷ついたような顔。司がこんな顔を見るのは初めてだった。
「司のことなら何でも分かってやりたいと思う。それでも、言ってくれなきゃ分からないことだってあるんだ。不満があるなら言ってくれよ。俺、何でも受け止めてやるから」
つぶらな瞳が潤んでいる。この人にこれ以上、悲しい思いをさせたくはなかった。
「僕は先生が結婚すると思ったんです」
司は刀の目を見ないで切り出した。
「結婚?」
「お見合いするって聞かされて、先生の幸せを邪魔しちゃいけないって……」
声が震える。これまで自分の中で溜めてきた想いがとめどなくあふれ出してきた。
「僕は3月になったらいなくなるから、先生を縛れないって。諦めなきゃいけないって。何度も言い聞かせたのに……」
そう考えるほどに刀の笑顔ばかりが思い出された。
「僕はやっぱり先生が好きなんです」
学校でこんなことを言うなんて思ってもいなかった。誰かに聞かれるかもしれないのに。そんな理性は、とっくに残っていない。
刀は、司の体を優しく抱きしめた。
「よく言ってくれたな。ありがとう。辛かっただろう」
司は刀の肩に凭れて泣きじゃくっていた。寒いわけではないのに、体の震えが止まらない。
「心配するな。見合いは断った。俺が愛するのは司だけだ」
「……でも、僕は3月になったらいなくなってしまいますよ」
「まだ9か月も先の話だろ? そんな難しいこと考えるな。今を大切にすればいいんだ」
そうだろ? と刀は覗き込むように問いかけてくる。確かにそうだった。僕は難しく考えすぎたのかもしれない。自分ひとりで思い詰めるなんてバカだと司は思った。
「どんな未来であっても、俺は司を愛し続ける。本当だぞ?」
刀の瞳に再び自信が宿る。司は自分から唇を重ねた。すぐに刀がありったけの力をこめて吸いついてくる。
「それにしても……」
唇が離れるなり、刀は膨れっ面になった。
「誰が司に見合いのこと話したんだ。生徒には秘密にしてくれって言ったのに」
司は肩を竦める。本当のことは言えそうにない。
「学校中で噂になってましたよ」
刀は頭を抱える。
「あちゃー。それじゃ、相川も知っているのか?」
司はこくりと頷いた。自分から言ってしまったのだけど。
「そうだ。こっちに来いよ」
刀は手を引いて、司をキャンバスの前へ連れていく。緑の背景に肌色で輪郭が描かれ、所々に赤い絵の具が置かれていた。
「所見の提出も終わって、ようやく再開できたんだ。この赤、きれいだろ?」
「でも、何のために赤く塗っているのですか?」
唇と頬以外にも、塗られているように見える。
「司の肌を表現するためさ。ただの肌色じゃない。血の気や体温を感じさせる色だ」
まるで、自分の奥底を覗かれているようで、司はくすぐったい気持ちになった。
「この色、高かったんだぜ」
刀が絵の具を差し出す。チューブには「バーミリオン」と書かれていた。
「僕のためにこんな……」
自分ごときで刀が身銭を切ったことに、司は申し訳なく思う。
「司のためなら何だってするさ。愛しているんだからな」
淀みなく言葉にできる刀がうらやましい。司は同じことを言おうとして、体が震えたのだから。
「もっとも、雨で絵の具が乾かないから、なかなか先に進めないんだけどな。夏までには完成させるぜ」
刀の顔が至近距離まで迫ってきた。そして口づけ。今度は司が刀の唇に吸いついた。
「さあ、もう少しで仕事が終わるから、ここに座って待っててくれ」
そう言って、刀は椅子を叩く。
「でも、今日は傘を持ってきてますよ」
「俺に送らせろって言ってんだ。一人で帰らせると心配だからな」
そう言って、刀はニカッと笑う。笑顔が戻ったことを嬉しく思う反面、司はいつもの生徒会長に戻っていた。まだ、部活動の生徒も先生たちもたくさん残っている。司が刀の車に乗ったら、何と思われるだろうか。
「安心しろ。言い訳ならいくらでも思い浮かぶさ」
まったく、この人は危なっかしい。それでも、司が憎めないほど愛しているのも、また事実だった。
※
6月最後の日曜日。司は刀の部屋にいた。ずっと借りていた紺色の傘がようやく持ち主のところに戻り、傘立てに入っている。もう一本、司が差してきた白い傘もあった。
「借りたままでも良かったのにな」
「ダメですよ。先生の大切な傘なんですから」
刀は拗ねた顔をする。何が不満なのか、司は掴めないでいた。
「俺、いつだって司と繋がっていたいんだ。物の貸し借りをしていたら安心するじゃないか。いつか返すために会いに来てくれるって」
返さない人だっているのに、そう考える刀は純粋だと司は思った。
「そうだ。俺の部屋で気に入ったものがあったら何でも貸してやるぞ」
司は部屋中を見回す。何故かゴッホの画集が目に入った。
「これ、借りてもいいですか?」
「なんだ、ゴッホに興味があるのか。どれどれ」
刀は床に画集を広げる。そして、絵を指差しながらゴッホの波乱万丈だった人生について説明した。その熱心さに、司は画集ではなく刀の横顔に見惚れてしまう。それに気づいた刀から不意打ちのキスを食らった。
「真面目に話を聞かなきゃダメだぞ」
「はい、先生」
二人の笑い声は、雨音に溶けていった。
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