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戦いの火蓋(1) 刀視点

 9月になっても、まだ夏休みの日曜日。刀は部屋へ遊びに来てくれた司を送るために車を走らせていた。  彼の車は、中古の黒いセダン。初年度登録から15年が経ち、走行距離も10万kmを超えている。アクセルを踏み込むたびにエンジンは大きく唸り、足元ではカラカラと奇妙な音がした。  どこか調子が悪いのかもしれないが、ディーラーで見てもらうのは高額の修理を提案されそうで気乗りしない。夏のボーナスはローンの返済やら画材の購入やらで使い切ってしまった。さらに数万円を請求されるのはきつい。だからと言って、このまま乗り続けて壊れてしまったら、余計に出費が嵩むことも刀は分かっていた。 「この車、うるさくてごめんな!」  助手席の司に話しかける時でさえ、ついつい怒鳴るような口調になってしまい、自己嫌悪に陥る。それでも司は笑顔を浮かべて、何でもないように振る舞ってくれた。だから、なおのこと手放したくない。  司の家のずっと手前にある公園の駐車場に車を停める。夕方なのに、まだ遊んでる子どもたちや散歩している大人がいて賑やかだった。これではおやすみの口づけさえ出来やしない。 「じゃあ、明日また学校で」  司が刀の手をギュッと握る。刀も力強く握り返した。 「ああ、校門で待っているからな」  司は頷くと、手のひらを解いて車から降りてしまった。そして、背を向けて反対側の入口に向かって歩き出す。いつも、この瞬間が刀は寂しかった。ずっと一緒にいられたらいいのに。そう願わずにいられない。 「もっと頑張らなきゃいけないな。仕事も絵も」  自分を奮い立たせると、刀は駐車場から車を出した。 ※  新学期の朝。刀はいつもどおり校門に立ち、登校してくる生徒を出迎えていた。もう相川を待つ必要が無いと考えると少し物足りない。怒鳴り合いや時には殴り合いでさえ、生活の一部になっていたのだと今さらながら痛感する。  相川の退学は、ひまわり畑で本人に会うまで知らなかった。熱心に指導していたのは誰もが分かっていたはずなのに。教えると家まで引き留めに行くからだ、と校長に言われたが、それの何が悪いと言うのだろう。もっとも、司の両親の前で誕生日を祝ったことを引き合いに出されると、刀は何も言えないのだった。  そこへ司が登校してくる。学校では生徒と教師として距離を置いているが、刀は堪らず声をかけた。司は驚いて振り向く。頬が少し赤い。 「ど、どうしたのですか?」 「挨拶の声が小さいぞ」  実際に司は、他の生徒の手前、気を遣っているのか小声で挨拶していた。もちろん、刀にはしっかりと聞こえているが、今日は呼び止めたくなった。 「熊谷先生、おはようございます」  司は刀の意図を読み取って、しっかりとした声で挨拶をする。けれども、それは生徒会長の堅苦しさを伴っていて、刀は不満だった。つい顔に表れてしまう。 「何かご不満でも?」 と司が言いかけた時だった。二人の脇をすり抜けるように、一台の青い車が入ってきた。ピカピカに磨かれた、日蝕の空のような深い青。車に詳しい生徒が熱を帯びた声で 「シトロエンだ!」 と指を差す。  シトロエンは教師たちの駐車場に停まった。男女問わず、生徒たちが物珍しそうに取り囲む。扉が開くと、中から長身の男が颯爽と下りてきた。  見る者を圧倒するような、鋼のごとき肉体。短く刈り込んだ黒髪の下で、意志の強さを感じさせる太い眉と、どこか冷たい印象を与える青みがかった瞳。鍛え抜かれた首筋や、Vネックのシャツ越しにも分かる分厚い胸板は、ただの優男じゃないことを雄弁に物語っていた。  その規格外の体躯を包んでいるのは、仕立ての良いチャコールグレーのレザージャケットだ。半袖から覗く丸太のような腕には、無駄な脂肪が一切なく、筋肉が浮き上がっている。胸元では、上質なシルバーのネックレスが、冷たい輝きを放っていた。  野性味と知性が同居する整った顔立ちに、人を食ったようなニヒルな笑みを浮かべ、男は取り囲む生徒たちをゆっくりと見据えた。色気のある仕草に女生徒たちから嬌声が上がる。その立ち姿からは、絶対的な自信と余裕が漂っていた。 「格好つけた野郎だぜ……」  そこで刀は気づく。この男は、かつての司が理想としていたタイプだと。慌てて司に目を向ける。もし男に見惚れていたら叱ってやろうと思ったが、幸い司は刀を心配そうに見つめていた。それが嬉しくて、つい表情が緩んでしまう。  男はスポーツバックを片手に校舎へと入っていった。取り囲んでいた生徒たちも後に続く。 「熊谷先生も行かなくていいのですか? あの人、新任の先生ですよね」  話しかけてきたのは司だった。 「何で俺が行かなきゃいけないんだよ」  司が答える前に、一人の教師が外に出てきて刀を手招きする。さっきの男を紹介するから中に入れ、と言いたいらしい。  刀が渋っていると、司にやんわりと背中を押された。 「行ってください。呼ばれてますよ」 「ここはどうするんだよ」 「僕が代わりに見てますから」  司は生徒会長だ。彼の言うことなら生徒たちも従ってくれるだろう。今は相川のような不良もいない。 「済まねぇ。頼んだぞ」  自分の役目を放棄するのと、司を残してゆくのと、後ろ髪引かれる思いで刀は校舎へと急いだ。

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