21 / 41
戦いの火蓋(1) 刀視点
9月になっても、まだ夏休みの日曜日。刀は部屋へ遊びに来てくれた司を送るために車を走らせていた。
彼の車は、中古の黒いセダン。初年度登録から15年が経ち、走行距離も10万kmを超えている。アクセルを踏み込むたびにエンジンは大きく唸り、足元ではカラカラと奇妙な音がした。
どこか調子が悪いのかもしれないが、ディーラーで見てもらうのは高額の修理を提案されそうで気乗りしない。夏のボーナスはローンの返済やら画材の購入やらで使い切ってしまった。さらに数万円を請求されるのはきつい。だからと言って、このまま乗り続けて壊れてしまったら、余計に出費が嵩むことも刀は分かっていた。
「この車、うるさくてごめんな!」
助手席の司に話しかける時でさえ、ついつい怒鳴るような口調になってしまい、自己嫌悪に陥る。それでも司は笑顔を浮かべて、何でもないように振る舞ってくれた。だから、なおのこと手放したくない。
司の家のずっと手前にある公園の駐車場に車を停める。夕方なのに、まだ遊んでる子どもたちや散歩している大人がいて賑やかだった。これではおやすみの口づけさえ出来やしない。
「じゃあ、明日また学校で」
司が刀の手をギュッと握る。刀も力強く握り返した。
「ああ、校門で待っているからな」
司は頷くと、手のひらを解いて車から降りてしまった。そして、背を向けて反対側の入口に向かって歩き出す。いつも、この瞬間が刀は寂しかった。ずっと一緒にいられたらいいのに。そう願わずにいられない。
「もっと頑張らなきゃいけないな。仕事も絵も」
自分を奮い立たせると、刀は駐車場から車を出した。
※
新学期の朝。刀はいつもどおり校門に立ち、登校してくる生徒を出迎えていた。もう相川を待つ必要が無いと考えると少し物足りない。怒鳴り合いや時には殴り合いでさえ、生活の一部になっていたのだと今さらながら痛感する。
相川の退学は、ひまわり畑で本人に会うまで知らなかった。熱心に指導していたのは誰もが分かっていたはずなのに。教えると家まで引き留めに行くからだ、と校長に言われたが、それの何が悪いと言うのだろう。もっとも、司の両親の前で誕生日を祝ったことを引き合いに出されると、刀は何も言えないのだった。
そこへ司が登校してくる。学校では生徒と教師として距離を置いているが、刀は堪らず声をかけた。司は驚いて振り向く。頬が少し赤い。
「ど、どうしたのですか?」
「挨拶の声が小さいぞ」
実際に司は、他の生徒の手前、気を遣っているのか小声で挨拶していた。もちろん、刀にはしっかりと聞こえているが、今日は呼び止めたくなった。
「熊谷先生、おはようございます」
司は刀の意図を読み取って、しっかりとした声で挨拶をする。けれども、それは生徒会長の堅苦しさを伴っていて、刀は不満だった。つい顔に表れてしまう。
「何かご不満でも?」
と司が言いかけた時だった。二人の脇をすり抜けるように、一台の青い車が入ってきた。ピカピカに磨かれた、日蝕の空のような深い青。車に詳しい生徒が熱を帯びた声で
「シトロエンだ!」
と指を差す。
シトロエンは教師たちの駐車場に停まった。男女問わず、生徒たちが物珍しそうに取り囲む。扉が開くと、中から長身の男が颯爽と下りてきた。
見る者を圧倒するような、鋼のごとき肉体。短く刈り込んだ黒髪の下で、意志の強さを感じさせる太い眉と、どこか冷たい印象を与える青みがかった瞳。鍛え抜かれた首筋や、Vネックのシャツ越しにも分かる分厚い胸板は、ただの優男じゃないことを雄弁に物語っていた。
その規格外の体躯を包んでいるのは、仕立ての良いチャコールグレーのレザージャケットだ。半袖から覗く丸太のような腕には、無駄な脂肪が一切なく、筋肉が浮き上がっている。胸元では、上質なシルバーのネックレスが、冷たい輝きを放っていた。
野性味と知性が同居する整った顔立ちに、人を食ったようなニヒルな笑みを浮かべ、男は取り囲む生徒たちをゆっくりと見据えた。色気のある仕草に女生徒たちから嬌声が上がる。その立ち姿からは、絶対的な自信と余裕が漂っていた。
「格好つけた野郎だぜ……」
そこで刀は気づく。この男は、かつての司が理想としていたタイプだと。慌てて司に目を向ける。もし男に見惚れていたら叱ってやろうと思ったが、幸い司は刀を心配そうに見つめていた。それが嬉しくて、つい表情が緩んでしまう。
男はスポーツバックを片手に校舎へと入っていった。取り囲んでいた生徒たちも後に続く。
「熊谷先生も行かなくていいのですか? あの人、新任の先生ですよね」
話しかけてきたのは司だった。
「何で俺が行かなきゃいけないんだよ」
司が答える前に、一人の教師が外に出てきて刀を手招きする。さっきの男を紹介するから中に入れ、と言いたいらしい。
刀が渋っていると、司にやんわりと背中を押された。
「行ってください。呼ばれてますよ」
「ここはどうするんだよ」
「僕が代わりに見てますから」
司は生徒会長だ。彼の言うことなら生徒たちも従ってくれるだろう。今は相川のような不良もいない。
「済まねぇ。頼んだぞ」
自分の役目を放棄するのと、司を残してゆくのと、後ろ髪引かれる思いで刀は校舎へと急いだ。
ともだちにシェアしよう!

