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戦いの火蓋(4) 刀視点

 放課後。いつもより早い夕暮れが校舎を染める頃、ようやく司は美術室にやってきた。 「……遅かったじゃないか」  司が悪いわけではないのに、つい不機嫌な態度で迎えてしまう。刀は腕を組んだままだった。 「ごめんなさい。生徒会の仕事が終わらなくて」  司は平謝りする。いつもと違う刀の態度に何かを感じ取っているのだろう。 「昼間は、佐伯に随分と熱心に指導されていたな」 「……体の使い方が違うって言われたんです。こうすればもっと飛ぶよと」 「それで、どれくらい飛んだんだ」 「1mです」  砲丸で1mも距離を伸ばすのは容易じゃない。確かに指導の甲斐はあったのだろう。けれども、刀は佐伯から指導以上の熱量を感じていた。 「あの男には気をつけろ。気安く心を許すな」  司は何でそんなことを言われるのか分からない、と言いたげな顔をする。それが刀を苛立たせた。 「分からないのか。司を狙っているんだぞ」  きょとんとした顔。どうやら司は予想すらしていなかったらしい。 「僕は……」 と司が言いかけた時だった。突然、ノックもせずに引き戸が開く。そこにいたのは佐伯だった。 「おや、弓岡君がいたのですか。これは失礼しました」  佐伯は意味深な笑みを浮かべる。 「何の用だ。ノックをするのが礼儀だぞ」  刀は精一杯虚勢を張ってみせる。その裏で、手のひらにはびっしょりと汗をかいていた。司を見ると、気まずそうに俯いている。 「生活態度が気になる生徒がいたので、熊谷先生に相談しようと思ったのです」  そう言って、佐伯は司を見つめた。司が遠慮して美術室を出ようとすると、その腕をやんわりと掴んだ。 「弓岡君も生徒会長だから、情報を共有した方が良いだろう」  自分の方に引き寄せて隣に立たせる。それが刀は不愉快で、不機嫌な声で尋ねた。 「それで、気になる生徒とは誰だ」 「あえて名前は伏せましょう。ただ、学生でありながら、いかがわしいところに出入りして、歳の離れた大人とも恋愛関係にあるようです」  司の表情がわずかに曇る。「何も言うな!」と刀は目で合図を送った。 「普段はとても真面目な生徒なのです。だから私は立ち直らせてあげたい」  佐伯の表情は至って真剣だった。刀には何を考えているのか読めない。 「それで、どうするつもりだ」 「熊谷先生ならどうしますか?」  問いかけに刀は考え込む。意識的に司から目を逸らして、他の生徒だと思い込むようにした。それでも、なかなか言葉は出てこない。 「では、弓岡君ならどうしますか?」  佐伯は身を屈めて、司の瞳を覗き込む。思わず刀は「やめろ!」と叫びたくなった。 「僕は……そっとしておくのが良いと思います。きっと、その生徒も分かってやってるでしょうから」  佐伯は大きくため息をつく。そして、司の肩に手を置いた。 「そんな無関心ではダメだ。そのうち大きく道を外して、取り返しがつかなくなるかもしれないよ」  まるで司に言い聞かせるように優しく諭す。刀は言いようのない苛立ちを感じた。 「それで、あんたはどうしたいんだ?」 「私はその生徒をずっと見守りたいと思います。道を外したら、すぐに矯正できるように」  刀は司と顔を見合わせる。 「生徒のプライベートまで干渉するのは感心しねぇぞ」 「熊谷先生だって、かつて相川という生徒を熱心に指導されていたじゃないですか。私はそれを見習いたいのです」  相川を引き合いに出されると刀は何も言えない。司も明らかに戸惑いの色を浮かべていた。 「秋空のように若者の気持ちは移ろいやすい。私が熱心に指導すれば、4ヶ月の間に立ち直るでしょう」  佐伯には自信があるように見えた。熱気がムスクと共に伝わり、刀はまた吐き気を催す。司は只々圧倒されているようだった。 「ふんっ。おめぇさんだって、その生徒の毒にあてられるかもしれねぇんだぞ。ミイラ取りがミイラになるようにな!」 「私だって教師のはしくれだ。どんなに想いを寄せても性的なことはしない。それが教師の矜持というものでしょう? 熊谷先生」  まるで自分に教師の矜持が無いように言われて、刀は憤慨した。 「話はそれだけか? ならば弓岡に用事があるんだ。帰ってくれ」  佐伯はおどけてお手上げのポーズをしながら司を見つめる。まるで「君は帰らないの?」と言いたげに。それでも素直に踵を返して引き戸に手をかけた。 「そうそう、熊谷先生。いくら美術室が散らかっているとはいえ、クロッキーブックを出しっ放しにするのは感心しませんよ」  刀は分かりやすく顔を引き攣らせる。もちろん司も。 「てめえ、勝手に見たのか。いや、勝手に美術室に入ったのか!」  刀の怒号に怯むことなく、佐伯は涼しげな顔をする。 「美術室は貴方のアトリエではない。出入りは自由なはずだ。私は貴方の不用心を注意しただけですよ。生徒たちに見られたらどうするのですか?」 「そ、それは……見て見ぬふりをするのが礼儀だろ!」  刀の苦し紛れの言い訳に佐伯は苦笑する。 「まったく。そんな有様では貴方を慕っている生徒が可哀想だ」  君もそう思いませんか? と言いたげに佐伯は司を見つめる。司はあいまいに微笑むしかできなかった。 「それじゃ、私はこれで。良い週末を」  そう言い残して引き戸が閉まる。後に残された二人は、距離を詰めることもできないまま見つめ合った。 「……どうしましょう。きっと佐伯先生が言ってるのは僕のことですよね?」  司が体を震わす。なのに、刀は一歩も動けずにいた。「ずっと見守りたい」という佐伯の言葉が脳裏を過る。 「日曜日は会わない方がいいですね」 「……ああ、その方がいいな。司のために俺、我慢するよ」  気がつくと刀の目から涙があふれ出してきた。司を危険な目に遭わせた後悔の念が自分を責める。堪らず、司が駆け寄って刀を抱きしめた。 「ダメだ。あいつに見られたら……」 「僕は先生のそばにいたくて、大学や未来の進路を決めたんです。今さら気持ちは変わらないですよ」  揺るぎない眼差し。司の方がずっと大人だった。刀は涙を拭い、鼻を擦る。 「そうだよな。俺も自信を持たなくちゃ」 「そうですよ。でも……」  二人の関係がバレてしまった以上、佐伯が何をするかは分からない。切って落とされた火蓋の向こうで、獲物を狙う獣の目が鋭く光る。二人にとっては、しばらく眠れない夜が続きそうだった。

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