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Thrill Down(3) 司視点
日曜日。司は息抜きに散歩すると家族に告げて、ゴーギャンの画集片手に刀の部屋へ向かった。佐伯に見つからないように裏道を選んで。幸いシトロエンは見かけなかった。
はやる心を押さえて刀の部屋の扉を開ける。「先生、司です。失礼します」と言いながら。
1ヶ月半ぶりに訪れる部屋。見慣れているはずなのに、今日はいつもと雰囲気が違った。刀は背中を向けたまま、広げたゴッホの画集に目を落としている。司の肖像画には布が掛けられたままだった。
「先生……」
司が恐る恐る声をかけると、刀が面倒臭そうに振り向いた。随分と飲んだのか吐く息から酒の匂いが漂ってくる。ジロリと睨むような目は焦点が定まっていなかった。
「座れよ……」
そう言って、刀はバシバシと大きな音を立てながら床を叩く。明らかに怒っているようだった。司が腰を下ろすと開口一番
「見損なったよ」
と切り出した。えっ? と司が呆気に取られたような顔をすると
「俺、見たんだ。本屋で佐伯と仲良さそうにしているのを」
と続けた。
「誤解です! たまたま一緒になっただけで……」
「その割には、ずいぶんと嬉しそうな顔をしてたじゃないか!」
刀の語気が強くなる。思わず司は正座して背筋を伸ばした。
「その本だって、佐伯に買ってもらったんだろ?」
刀がゴーギャンの画集を指差す。司は慌てて首を横に振った。
「違います。僕のお金で買いました。小遣いを貯めて……」
「嘘だ!」
刀の怒鳴り声が部屋中にこだまする。
「そんな高い画集、小遣いで買えるわけないだろ!」
司は次第に自分が理不尽に責められているのが悲しくなってきた。こんな風に誤解されるほど信頼されていないなんて。
「結局、おまえはああいう背の高い男が好きなんだろ? 俺みたいなボロ車に乗ってる汚ねぇチビ助より、ピカピカのシトロエンに乗ったエリートの方がお似合いだよな!」
もうそれで十分だった。どんなに言い訳しても、刀は聞き入れてくれないだろう。それくらい嫌われてしまったのだ。自分から身を引くしかない。
「ごめんなさい……これ、返しますね」
刀に似たシーサーのマスコットがついた合鍵を差し出す。そして、勢いよく立ち上がると、逃げるように部屋を飛び出した。ゴーギャンの画集は置き去りにして。
階段を駆け下りて通りに出る。早くここから離れなければ。自然と早足になる。次第にこらえていた涙が零れてきた。あんなに愛し合って、僕は貴方のために未来を決めたのに。些細なきっかけで簡単に壊れてしまうなんて。
出会ってからの半年が走馬灯のように駆け巡る。最初は「マスカレード」での出会いだった。あの時は5cmの差を飛び越えて、僕を抱きしめてくれた。自分のコンプレックスを肯定して、包み込んでくれたから好きになった。そして、あの素晴らしい肖像画を描いてくれた……。
その時、音もなく一台の車が近づいて、司の隣で停まった。見覚えのある青いシトロエン。司が足を止めて涙を拭うと、佐伯が車から降りて駆け寄ってきた。
「どうしたんだい? 泣いてるじゃないか」
「……先生こそ、こんなところで何をしてるのですか?」
相手が佐伯だから、つい生意気な口を聞いてしまう。本当は会えて心強かったのに。
「とにかく車に乗りなさい。話を聞こうじゃないか」
司は刀のアパートへと目を向ける。追いかけてこないのを確かめて、シトロエンの助手席に乗り込んだ。
厚みのある音を立ててドアが閉まる。シトロエンは滑るように走り出し、何の振動も騒音も感じさせない。聞こえるのは互いの息遣いだけ。司には車内が世界から隔離された密室のように感じられた。
「何があったんだい? 話すと気分が楽になるよ」
佐伯は滑らかな手つきでハンドルを回す。耳元にしっかり届く低い声。それでも司は口を噤む。膝の上で拳を握りしめて。佐伯はため息をついた。
「無理には聞かないよ。けれども、君の涙を見るのは辛い。それだけは分かっておくれ」
佐伯はセンターコンソールを開けてハンカチを取り出した。糊のきいた白いコットンのハンカチ。目元に当てると、また涙があふれてきた。
「……小遣いが無駄になってしまいました。せっかく何ヶ月も貯めたのに」
「そうか。君がどれほど大切にそのお金を貯めてきたか、私には分かるよ」
佐伯はウインカーを右に倒した。司の家とは逆方向である。
「少しドライブしよう。君の気が済むまで」
遠くの空が赤く染まり始めている。帰りが遅くなると、両親を心配させるかもしれない。それでも司はこくりと頷いた。
車は混み合う街道を抜け、郊外の自動車専用道路に入る。佐伯がアクセルを踏み込むと、景色が速く流れ始めた。それでも、重力を感じることはなく、車内は静かなままだった。
「でもね、弓岡君。君は何も悪くないよ。君の善意を無駄にした相手が未熟なだけだ」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。そんな奴は君にふさわしくない」
優しく諭されて、司は次第に心が落ち着いていくのを感じた。気が立っていたせいか、少し疲れを感じる。
「眠ってもいいよ。私は何もしないから」
「でも……」
「言っただろ。どんなに想いを寄せても性的なことはしないって。私は君の先生だ」
ああ、世の中にはこんなに真面目な先生もいるんだな。その安心感が司を眠りに誘う。もう、佐伯は話しかけて来なかった。
「君は卑怯だ。眠っている時でさえ私を誘惑しては悩ませる。……今は口づけしてもいいね?」
頬に切なげな声と口づけが降ってくる。けれども、司は既に夢の中だった。
※
「司。司......起きなさい!」
体を揺すられて司が目を覚ますと、そこは家の前だった。母親と父親が心配そうな顔をして覗き込んでいる。辺りはすっかり暗くなっていた。
「どうしてここに?」
両親の隣には佐伯が立っていた。やはり心配そうな表情を浮かべている。
「弓岡君が眠ってしまったので、家まで送ったんだよ」
いいえ、どうして貴方が僕の家を知っているのですか? と司は尋ねそうになった。それを遮るように母親が
「佐伯先生は貴方を助けてくれたのよ。お礼を言いなさい」
と促してくる。眠っている間に何を聞かされたのか、すでに佐伯のことを信頼しているようだった。父親も同様である。司が佐伯に目を向けると、二人に気づかれないように軽くウインクしてきた。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながら頭を下げる。佐伯は笑顔を見せて
「受験生なんだから、自分の行動には気をつけようね」
と返してくれた。
「さぁ、家に入りましょう。お腹空いたでしょ」
母親に背中を押されて家の中へ入る。父親は佐伯にお茶を勧めているようだったが、やんわりと断られていた。
「もう遅いですし、弓岡君も疲れているでしょう。私は帰ります」
そして車と同様、スマートに帰っていった。けれども、司は見逃さなかった。最後に意味深な笑顔を残していったのを。
食事をしていても両親は何も言わなかった。それが却って不気味で居心地が悪い。
「佐伯先生って良い人ね」
そう切り出したのは母親だった。
「ああ、司のことを本気で心配してくれるな」
父親も同調する。
「司、これからは佐伯先生もいるし、私たちもいるのだから、困ったことがあったら何でも相談しなさいね。悪い大人に近づいちゃダメよ」
ますます佐伯から何を聞かされたのか気になる。特に「悪い大人」という言葉が引っかかった。それでも、自分からは怖くて聞けない。
「それにしても、酷い教師がいるものだ。学校に抗議しなければいけないな」
父親が憤慨する。それを母親が止めた。
「お父さん。それは佐伯先生が校長に話すと言ったでしょ。任せましょうよ」
そこまで聞かされて、司は佐伯が刀のことを話したのだと悟った。おそらく刀のせいで司が泣いていたとでも話したのかもしれない。いつもの司なら、すぐに反論していただろう。なのに、今は何の言葉も出てこない。刀には拒絶されてしまったのだ。庇う筋合いは無かった。
「僕は……間違っていたよ」
両親のホッとした顔。それだけ言うのがやっとだった。
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