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Thrill Down(4) 司視点

 翌朝。司は起きる時間になってもベッドの中でグズグズしていた。昨日、あんなことがあったばかりなのに、校門で刀と顔を合わせなければいけない。それが司をためらわせていた。けれども 「僕は生徒会長なんだ」  そのプライドで自分を奮い立たせる。何を弱気になっているんだと叱りながら。  着替えを終えて朝食を摂り、外へ出ると家の前に青いシトロエンが停まっていた。司を見るなり、佐伯が運転席から降りてくる。 「どうしたのですか?」 「君が心配だから迎えに来たよ」  気遣わしげな表情で見下ろしてきた。それでも司は素っ気なく 「学校は近くですから」 と歩いて行こうとする。母親がそれを止めた。 「せっかく先生が迎えに来てくださったのだから乗っていきなさい」 「でも……」 「お母さんもそう言ってるんだ。さぁ、乗って」  佐伯は慣れた手つきで助手席の扉を開け、押し込むように司を乗せた。 「お母さん、安心してください。僕が弓岡君を守りますから」  そう言い残して佐伯は運転席に乗り込む。司は観念してシートベルトを締めた。 「そこまでしなくても良いのに……」  シトロエンが動き出すなり、不満が口をついて出た。佐伯は意外そうな顔をする。 「喜んでくれると思ったよ」 「学校で何と噂されているかご存じですか? 僕と先生は恋愛関係にあるって言われているんですよ」  佐伯は軽く口笛を吹く。 「素晴らしいじゃないか。私は光栄だよ」 「……とにかく、学校の手前で降ろしてくださいね」 「それは聞き入れられないな」  言葉のとおり、シトロエンは停まることなく校門を過ぎてゆく。いつものように生徒を出迎えていた刀が驚きを露わにしていた。いたたまれなくて司は視線を逸らす。  駐車場にシトロエンが停まるなり、刀が目の前に立ちはだかった。思わず司の体が竦む。 「私が話をつけてこよう。弓岡君はここで待っているんだよ」  そう言って佐伯が先に降りる。刀と何か言い争いをしているようだった。けれども、シトロエンに阻まれて何も聞き取れない。ただ、怒っている刀を佐伯が涼しく受け流しているのが見えた。登校してきた生徒たちも野次馬となって二人を取り囲む。  そのうち校長や他の教師たちも飛び出してきて、二人の間に割って入った。先に刀が校舎へ連れていかれる。その後でようやく助手席の扉が開き 「弓岡君、もう大丈夫だよ」 と佐伯に降りるよう促された。  何と言われたのですか? と尋ねたかったが、それよりも早く佐伯は校舎に入ってしまう。残された司は、他の生徒たちの好奇の眼差しに晒されながら、逃げるように後に続いた。 ※  その日は生憎、美術の授業があった。他の生徒たちが美術室へ移動していく中、司もスケッチブックと筆記用具を抱えて廊下に出る。  途端に昨日の刀の怒った顔と怒鳴り声が頭の中でフラッシュバックした。怖くて足が竦み、体が震える。 「でも、行かなくちゃ。僕は生徒会長なんだから」  ゆっくりと足を前へ踏み出す。なのに、そこから先に進めない。他の生徒たちが気にも留めずに追い越してゆく。焦りで動悸が激しくなり、次第に体が汗ばんできた。  どうしよう、もうすぐチャイムが鳴ってしまう……司が観念したその時だった。 「弓岡君、どうしたんだい? 顔色が悪いよ」  耳元で低い声が聞こえて振り向く。佐伯が心配そうな顔をして立っていた。司はつい、救いを求めるような眼差しで見つめてしまう。 「美術室へ行けないんです。昨日のことを思い出したら怖くて……」  そう言って俯くと、佐伯に手首を掴まれた。チャイムが人影の消えた廊下に鳴り響く。 「保健室に行こう。無理をしちゃいけないよ」  司は逡巡する。まだ心の中では弱い自分と生徒会長としてのプライドがせめぎ合っていた。 「弓岡君、時には逃げることも必要だ。何も恥じることはない」  佐伯が司の顔を覗き込む。力強い眼差し。引き込まれてしまう自分がいた。 「さぁ、チャイムが鳴り終わる前に早く!」  司は佐伯に導かれるまま、階段を下り始めた。 ※  1階の保健室では養護教諭が、快く司を迎えてくれた。佐伯が小声で耳打ちすると 「何も考えなくていいですからね。そこのベッドで休んでください」 と空いているベッドを指差した。司は戸惑いながら制服の上着を脱いで横たわる。カーテンを閉められると、窓からの陽射しを遮られて薄暗い。佐伯が養護教諭と話している声が途切れ途切れに聞こえてきた。刀と顔を合わせなくて良いという安心感が司を眠りに誘う。  どれくらい眠っていたのだろう。司は言い争う声で目を覚ました。 「弓岡に会わせろ!」  耳慣れた甲高い声。今は一番聞きたくない声でもあった。布団を頭から被って体を震わせる。 「今は精神的に不安定なので、面会は許可できません。それよりも熊谷先生、授業はどうしたのですか?」  養護教諭の声に沈黙が流れる。司は刀が諦めて去ってくれたらと願った。 「司……俺が悪かったよ」  一転して寂しげな声が聞こえて、司は布団から顔を出し、耳を欹てた。 「あの画集、小遣いをはたいて買ってくれたんだろ? それなのに疑って最低だよな」  鼻をすする音がする。おそらく刀は涙ぐんでいるのだろう。司は上半身を起こし、ベッドから飛び出したい衝動に駆られる。いつものように優しく抱きしめてあげたかった。僕は何も怒っていないですよと。けれども、心の傷が癒えたわけではなかった。 「熊谷先生、何をしているのですか?」  刀の次の言葉を遮るように冷たい声が響いた。 「こんなことをしたら自分の立場が悪くなることくらい分からないのですか? 今度こそ免職ですよ」  それっきり刀の声は聞こえて来なくなった。本当に去ってしまったのだろう。引き戸が閉まる音がする。すかさずカーテンが開いて、佐伯が入ってきた。フワッとムスクの匂いが充満する。司は、大きな手のひらで優しく頭を撫でられた。 「私がいなかったばかりに怖い思いをさせたね」 「……いえ、大丈夫です」  佐伯が小さくため息をつく。 「安易に許してはいけないよ。あの男は君を傷つけたのだからね」 「でも……」  続けようとした司の唇を、佐伯が人差し指で止めた。 「私は君の未来を考えて言ってるんだ。信じてくれないか」  射貫くような眼差しに気圧されて、司はこくりと頷く。それを見て、佐伯は満足そうに頷き返した。 「ありがとう。これからも君を守り続けるよ」  守り続ける、か……。司にはそれが目に見えない鎖のように思えた。

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