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Thrill Down(5) 司視点

 美術の授業が終わり、司は自分の教室に戻った。すぐにクラスメイトたちが次々と声をかけてくる。 「弓岡が授業を休むなんて珍しいな」 「熊谷先生が顔色を変えて出ていったから、保健室で怒られているかと思ったよ」  それに対して司は 「心配かけてごめん。もう大丈夫だよ」 と苦笑するしかなかった。  昼休み、参考書を読んでいると、誰かが廊下から見ているような気がして、恐る恐る顔を上げる。開け放った引き戸の向こうでは、刀が恨めしそうな目をして立っていた。司は気まずそうに俯く。それでも顔に刺さり続ける視線が痛い。  クラスメイトたちが噂する。 「熊谷先生、何しに来たんだろう」 「じっと中を見ていて、気持ち悪いよな」  入って来ないところを見ると、やはり次に何か騒ぎを起こせば免職になるのだろう。 「先生は誤解しただけなのに……」  司は申し訳なく思った。 ※  放課後。生徒会の仕事も終わって、司は玄関に向かった。あの後はすべての授業に出席して、刀と顔を合わせることは無かった。どうにか一日を終えられてホッとする。  ふと靴箱を見ると、靴に何か入っていた。スケッチブックを破ったような紙切れ。  そこには殴り書きのような汚い文字で、このように書かれていた。4Bくらいの濃い鉛筆で。  司へ。  昨日は本当に済まなかった。俺は最低なクズ野郎だ。  あの画集、俺のために貯金して買ってくれたんだな。  なのに、嫉妬で頭が真っ白になっちまった。  俺は、佐伯みたいなエリートと違って、器が小せぇんだよ。  謝っても許してくれないかもしれないが、  司に嫌われたままなのは、死ぬよりきついんだ。  信じてくれ。俺は今でも司を愛してる。  署名の代わりに、紙切れの隅には涙を流しているシーサーが描かれていた。  司は思わず吹き出してしまった。刀らしいまっすぐで不器用な手紙。きっと、美術室で書いてくれたのだろう。昨日から冷え切っていた心が、温かくなるような気がした。 「何を笑っているんだい?」  ふと低い声が聞こえ、司は慌てて手紙を隠そうとする。けれども、あっけなく背の高い佐伯に取り上げられてしまった。  佐伯は手紙に目を通すと、一瞬だけ顔を歪めた。それでも、すぐにいつもの穏やかな表情に戻ると、手紙を粉々に破いてしまった。「あっ!」と司は悲痛な声を上げる。 「こんな不潔な紙切れ、今の君にはふさわしくないよ」  両手からバラバラと舞い落ちる紙吹雪。司はしゃがんで拾おうとするが、佐伯の腕が強い力でそれを止めた。 「さぁ、家まで送ってあげよう」  引きずるように司をシトロエンまで連れてゆく。佐伯は気づいていなかった。手紙を取り上げた時、司の手の中に破れた欠片が残っていたことを。泣き顔のシーサー。司はそれをお守りのように、大切にポケットの中へ仕舞い込んだ。 ※  その夜、司は刀にメッセージを送った。散々悩んで「手紙、ありがとうございました」の一言だけ。それでもすぐにシーサーが喜んでいるスタンプが送られてきた。つい、笑顔が浮かんでしまう。  それからは、廊下ですれ違っても挨拶できるようになったし、美術の授業にも出席できるようになった。けれども、二人きりになるのはまだ怖くて、授業が終わるとすぐに教室へ帰ってしまう。刀の寂しそうな顔が視界に入り、心苦しかった。  もちろん、二人でいるところを見られたら、刀は今度こそ免職になってしまうだろうし、司だって無傷ではいられないだろう。どうすれば元通りになるのか。受験よりも難しいパズルを解いているみたいで、司は混乱していた。 「寂しそうな顔をしてるね」  運転席の佐伯が話しかけてきた。最近ではすっかり、行きも帰りもシトロエンで送ってもらうのが当たり前になっている。 「別に寂しい顔なんか……」 「してたよ」  司は佐伯をチラリと見た。特に表情を崩すことなく、まっすぐ前を見据えてハンドルを操っている。 「……君を寂しくさせているのは私のせいだろう。埋め合わせをしなくちゃいけないね」 「埋め合わせって何ですか?」  そう司が尋ねた時、シトロエンが家の前に着いた。逃げるように降りて家の中に入ろうとしても、佐伯が後をついて来る。 「もう帰ってもいいですよ」 「私は君のお母さんに用事があるんだ」  何を言うつもりなのだろうと、気が気でなかった。扉を開けるなり、母親が出て来る。 「あら、佐伯先生。司を送ってくださってありがとうございます」 「安全に送るのが私の役目ですから」  そう言って、佐伯は丁寧にお辞儀をする。母親が嬉しそうに目を細めるのを、司は複雑な気持ちで眺めていた。 「弓岡君は受験勉強で疲れているようです。もしよろしかったら今度の日曜日、気晴らしにでもドライブに誘ってあげたいのですが」  突然の提案に司は慌てて首を横に振る。母親は意外そうな顔をした。 「いいじゃないの。先生だって貴方のことを心配して、貴重な日曜日を使ってくれるのよ」  余計なお世話ですと言いたくて司は佐伯を見るが、微笑みながら眼差しではノーとは言わせないと強要しているみたいだった。この人は、司が言うことを聞かない時の手札をいくつも持っている。 「それでは、10時に迎えに伺います。弓岡君、楽しみにしてるよ」  司の意向を確認することなく、佐伯は帰ってしまった。むしろ、母親の方がウキウキしている。 「母さんが一緒にいけばいいじゃないか」 「先生は貴方のためだっておっしゃってるでしょ?」  貴方のためか……本当はただ追い詰めているだけなのに、なんで誰も分かってくれないのかと、司は絶望的な気持ちになった。

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