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奪取(4) 刀視点

 刀は、真っ白なキャンバスを挟んで、司と対峙していた。刀に穴が開くほど見つめられた司は緊張の面持ち。もちろん、司の父親と約束したとおり、美術室の引き戸は全開にしている。ひんやりした空気が入り込んで、刀は司に寄り添いたくなった。 「もう一度、司を描いてみたい」  そう提案したのは刀だった。司は戸惑う。 「そんな……肖像画なら、もうあるじゃないですか」 「俺は今の司を描いてみたいんだ。それに、絵を描いていれば会える口実にもなるだろ?」  けれども、それは表向きの理由だった。本当の狙いは別のところにある。  司は時折、刀に対して申し訳なさそうな顔をする。その理由を刀は痛いほど分かっていた。佐伯の前で、触れられていないのに漏らして全裸になったこと。司の屈辱を思うと、胃がキリキリと痛む。どんな言葉で慰めても、司を癒すことはできないだろう。ならば、飛びっ切り素晴らしい絵を描いて悪い夢から覚ましてやりたかった。  キャンバスに木炭を走らせていると、佐伯が入ってきた。刀と司を交互に見て、露骨に顔を顰める。 「何をしているのですか?」 「見れば分かるじゃないですか。司君を描いているんですよ」 「弓岡君は受験生なんです。そんな暇はありませんよ」  佐伯が強引に連れ出そうとするのを司が遮った。 「僕がお願いしたんです。熊谷先生に描いてくださいと」  司の機転に刀は心から感謝した。 「1時間経ったら、必ず家に帰りますから」  司は瞳を潤ませながら懇願する。佐伯はため息をついた。 「そこまで言うなら仕方ない。1時間経ったら迎えに来ますからね」  そう言い残して佐伯は出ていってしまった。足音が遠ざかるのを確かめて 「いけ好かない野郎だぜ」 と刀は口走る。司が困ったように微笑んだ。 「誰かに聞かれるかもしれませんよ」 「司の前では素直でいたいんだ」  たとえ自慢の髭は失ったとしても、自分らしさはそのままでいたい。今や司は世界で唯一、本当の自分を見せられる存在だった。 「司。もっと表情を緩めて」 「……こう、ですか?」  司は、ぎこちなく笑顔を浮かべてみせる。あの夏にひまわり畑で見た満面の笑みを知っていると切なくなるが、その翳りは刀の絵心を煽った。 「そうだ。いい顔をしてるぜ」  司の頬が赤らむ。今すぐにでも絵の具を乗せて、この瞬間を切り取りたい。刀の気持ちばかりが先走っていた。結局、この日はデッサンだけで1時間が経ってしまった。司がキャンバスを覗き込む。近づく横顔に、刀は口づけしたい衝動に駆られた。 「どんな絵になるのか楽しみです」 「ああ、毎日少しずつ進めるから、完成するまで付き合ってくれないか?」  司が嬉しそうに頷く。刀は心が温かくなるのを感じた。  その時、廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。 「……もう帰らなきゃいけないですね」  司が刀から距離を置く。すぐに佐伯が顔を出した。 「熊谷先生、お先に失礼します」  そう告げると、司は佐伯の呼びかけを待たずに廊下へ出てしまった。引き戸が閉まる。後に残された刀は、寂しさのあまり涙ぐんだ。そして、キャンバスに浮かび上がった司の輪郭を指でなぞる。 「泣き虫な俺でごめんな。でも、愛しているんだ」  その後も、刀は気が済むまでデッサンを続けた。 ※ 「……どうしたのですか?」  いつもの、絵の具で汚れた黒いジャージ姿の刀を見て、司は目を丸くする。思ったとおりの反応に刀はほくそ笑んだ。 「アクリル絵の具は服に付いたら取れないからな。大事な一張羅を汚すわけにはいかねぇ。……それとも、こんな俺は嫌いか?」  司は慌てて首を横に振る。 「いいえ……以前の先生が帰ってきたみたいで嬉しいです」  そう言って照れてみせた。刀は逸る自分を落ち着けるために、大きく深呼吸する。アクリル絵の具の酸っぱい匂いが鼻腔を擽った。 「油絵……じゃないんですね」  刀の手に握られたアクリル絵の具を、司は不思議そうな顔で見つめる。 「ああ、油絵具は乾くまで時間がかかるからな。早く仕上げるにはアクリル絵の具が一番なんだ。油絵のように立体的な絵にすることもできるんだぜ」  刀は紙のパレットにペインズグレーを絞り、水で溶いた。そして、殴りつけるようにキャンバスへ乗せてゆく。荒い筆遣いに、しぶきが撥ねて刀の顔やジャージを汚す。バシバシ音がするたびに司は肩を竦めて、恐る恐る刀を見守っていた。  混沌とした嵐の最中の空の色。今にも司を飲み込んでしまいそうなくらい、デッサンの輪郭を侵してゆく。刀が背景を塗り終える頃には、すっかり汗ばんでいた。 「まだまだ、こんなもんじゃないぜ!」  刀は続いて、司の髪の毛や肌、制服のベースとなる色を乗せてゆく。今度は打って変わって繊細な筆遣い。まるで司を愛撫しているようだった。  没頭しているうちに1時間が経ったらしい。廊下から佐伯の呆れた声が聞こえてきた。 「おやおや、そんな格好をして。もういい人ぶるのはやめたのですか?」 「とんでもない。アクリル絵の具は服についたら取れないから、着替えただけですよ」  刀は本心と裏腹に、にこやかな笑顔で返す。佐伯はため息をついた。 「さあ弓岡君、帰ろう。君まで汚れてしまったら、ご両親に顔向けできないからね」  司を汚したのはおまえだろ! と怒鳴りたい気持ちを堪える。刀は司に目を向けた。 「明日は顔に赤い色を乗せるんだ。楽しみにしてほしい」  司が嬉しそうに頷く。反対に、佐伯がつまらなさそうな顔をしているのが、刀は愉快だった。

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