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心を開いて(4) 刀視点
それから1週間くらいして、刀が描いた相川の絵は、アクリル絵の具が乗せられて完成した。わざわざ額縁を買って飾るという凝りようである。
刀はこれを相川にプレゼントしようと思った。そのために、本物よりもハンサムに描いたつもりである。なんと言って渡せばいいだろうか。もちろん、定職に就けた祝いでもあるが、この絵にはそれ以上の想いが籠められている。少しでも気づいて欲しかった。
刀は学校の帰り、いつものように商業施設の裏口へ回った。そろそろ上がる時間だと前もって聞かされていた。裏口を遠巻きに見つめながら、相川が出てくるのを今か今かと待ち構える。
程なくして、私服に着替えた相川が現れた。けれども、様子がおかしい。明らかに狼狽えている。刀は自分から駆け寄り、声をかけた。
「ああ、先生か。頼む。今から車で病院へ連れてってくれないか」
「どうしたんだ」
「産まれそうなんだよ、子どもが!」
それからは、どうやって病院までたどり着いたか覚えていない。ただ、相川を助手席に乗せて、何回も他の車にぶつけそうになりながらも、救急車並みのスピードで病院へ急いだ。すでに彼女の両親が駆けつけており、相川は到着するなり事情を聞かされた。刀はその様子を少し離れたところから見つめる。
やがて、相川は廊下の長椅子にドカッと腰を下ろした。刀もその隣に寄り添うように座った。
「心配するな。必ず元気な赤ん坊が産まれてくるさ」
そう言いながら、相川の肩に腕を回す。
「俺、怖いよ……」
「怖い?」
「だって、赤ん坊が産まれてきたら父親になるんだぜ。まだ仕事では駆け出しに過ぎないのに、これから彼女だけじゃなく子どもも食わせていかなきゃいけないんだ。責任重大だよ」
まだ若者らしい不安だった。いや、刀も同じ立場だったら、同じように怯えていたのかもしれない。結婚すると男は皆、こんな不安を抱えるんだなと、刀は小川や吉見、本庄といった旧友たちに思いを馳せた。
「そんな弱気でどうする。彼女や子どもにしてみたら、おめえさんが頼りなんだぞ」
体に触れると相川の鼓動が伝わってくる。出産という一大事を控えて、緊張しているのが丸分かりだった。
「俺、良い父親になれるかな」
「なれるさ。俺が保証する」
「先生が言ってくれるなら安心だな」
相川が笑顔を見せる。もう「ホモ野郎」だなんて口にはしない。そこにいたのは、立派な一人前の大人だった。
その時、静まり返っていた廊下に赤ん坊の泣き声が響いた。相川が勢いよく立ち上がる。分娩室の扉が開いて、看護師が中へ入るよう促した。彼女の両親が吸い込まれるように入ってゆく。
「さあ、おまえも行ってやれよ。彼女と赤ん坊が待ってるぜ」
刀に背中を押されると、相川も駆け足で分娩室に入っていった。扉がきちんと閉まらなかったのだろう。隙間から相川が赤ん坊を抱えて喜ぶ姿が見える。それは紛れもなく父親の顔だった。
刀は胸がいっぱいになった。そして、カバンを抱えてそっと病院を離れる。これ以上ここにいてはいけない。自分はあくまでも異物。相川の幸せを邪魔してはいけないのだ。カバンの中には相川の絵が入っている。行き場を失くしてしまったプレゼント。
車のハンドルを握るなり、とめどなく涙があふれてきた。いつかこんな日が来ることは分かっていたのに。相川が自分の仲間ではなく、女好きであることは覆しようがないのに。刀はずいぶんと期待してしまった。
ワイパーのように何度も腕で涙を拭いながら、どうにか自分の部屋までたどり着く。相川からはメッセージも電話も無かった。きっと今頃、家族と幸せに酔いしれているのだろう。なのに自分は永遠にひとりぼっちだ。
ふと、司の肖像画が目に入る。もう何ヶ月も目を向けていなかった肖像画。かつては一日に何度も眺めていたのに。
スマホを取り出し、司に電話をかける。たったワンコールで司は出た。
「先生?」
その声を聞いただけで感情がこみあげて、刀は何も言えない。代わりに漏れてくるのは嗚咽ばかり。
「どうして泣いてるのですか? 何かあったのですか?」
司が気遣わしげな声をかけてくる。刀は言葉を紡ぐように、ポツリポツリと話し出した。
「ごめんよ。俺、どうかしていたんだ。司がいるのに、何も信じていなかった。こんな俺、許してくれるか?」
「許すも何も、僕は初めから怒っていませんよ」
「そうか、ありがとう。本当にありがとう」
再び嗚咽が漏れる。どうして自分は司を裏切ってしまったのだろう。今さら悔やんでも遅かった。
「俺、司に会いたい。分かってるよ、受験勉強でそれどころじゃないって。でも、寂しくて気が変になりそうなんだ」
電話の向こうで沈黙が流れる。きっと迷っているのだろう。あの厳格な両親の手前もある。
「……今すぐ行きますよ。だから待ってて」
決意を露わにした声。それは刀が思うよりもずっと力強かった。
「無理しなくていいんだぞ。親御さんに怒られるだろ?」
「心配しないで。僕だって大人だから」
司がそう言うと電話が切れた。もう夜も遅い。本来なら迎えに行かなければいけないのに。刀はつくづく自分が情けなく思えた。けれども、司がかけてくれた言葉の一つひとつが確かに刀を励まし、ひととき気持ちを落ち着かせてくれた。安心したからか、刀は万年床で力尽きたように、膝を抱えて眠ってしまった。
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