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貴族院の嵐3
その日の午後はやけに屋敷が落ち着かない空気に包まれていた。いつもは穏やかなエントランスホールが、どこか張りつめた空気を纏っている。廊下を行き交う使用人たちは皆足早で、口を開けば小声でなにかを囁いていた。そんな様子を厨房近くでルナを抱きながら見ていた。
「ヴァルター侯爵がいらっしゃるらしい」
「今、馬車が門をくぐったそうだ」
そんな言葉が厨房にも聞こえてくる。そしてその言葉を聞いたとき、アベルがほんの一瞬眉をひそめたのを見逃さなかった。
「ヴァルターって誰なんですか?」
思わず訊いていた。まぁとても好かれている人とは言えないようだけど。
「ヴァルター侯爵。貴族院の重鎮です。若い頃から政治の中枢にいる。冷徹で策士だって噂です。レオニス様とは意見が合わない。庶民を救う政策に反対しているのもあの人の派閥だって噂です」
アベルの言葉に背筋に冷たいものが走った。最近のレオニスさんの難しい顔は、この人のせいなんだなとわかる。そんな人がこの屋敷にいる。今は出て行かない方が良さそうだ。なにでケチをつけられるかわかったものじゃない。しばらくここにいよう。
「ルナ。お前もしばらくはここにいろよ」
しばらくして玄関の方から重たい足音と、金属の靴音が響いてきた。扉の磨りガラス越しに見えたのは、黒衣を纏った背の高い男。後ろには従者を2人従え、灰色のマントの裾を引きずるように歩いている。あれがヴァルター侯爵か……。その人が屋敷に入ってきた瞬間、空気が一瞬で変わったように感じた。真冬の冷気みたいだ。
レオニスさんが挨拶をしている。いつもと同じ服装だけど、顔は少し強ばって見える。そうだよな。あんな人招待したくないよな。でも相手が侯爵ともなると、伯爵家のレオニスさんは断るわけにもいかないだろう。貴族って確か上下関係がハッキリしていたはずだ。それはこの世界でも変わらないだろうしな。
「ヴァルター侯爵。ようこそいらっしゃいました」
その言葉は礼儀正しいけど、柔らかさはない。そうりゃそうだ。でも、そんなレオニスさんにヴァルター侯爵はゆっくりと笑った。いや、笑ったのは口元だけで、目は少しも笑ってなくて冷たい目をしている。怖い。一瞬でそう思った。こんな人の相手をするレオニスさんは大変だな。
「君は貴族院でで随分口を出しているな」
「私にも発言権はあります。庶民救済は私がどうしても通したい法案ですから」
「ふん。庶民なんて救済する必要はない。大体困ってもいないだろう。政治は貴族のものだ」
すごい物言いだ。庶民は困ってないとか救済する必要はないとか、政治は貴族のものだって。聞いてるだけで気分悪くなる。あんな人は1分でも一緒にいたくない。アベルさんを見ると、紅茶を淹れているけれど、その顔は険しいものだった。
「お話しはどうぞ奥で」
「ふむ。そうしよう」
うわ。すっごい偉そう。確かに侯爵となれば貴族の中でも上位貴族だ。でも、だからと言ってあんなに偉そうにするものか? つくづく日本は華族制度を廃止していて良かったと思う。だって皇族以外はみんな平民だ。身分の差なんてない。
足音が書斎の方へと進んで行った。その後を従者が2人、黒い影のように続く。あの人が来ただけで屋敷の中の空気は氷のようになった。早く帰ればいいのに。なんてお客さんに思ってはいけないことを思ってしまった。
「アベル。お茶の用意は……」
「出来てますが、今、忙しいんじゃないですか?」
「そうなんです。今、庶民街からも急の来客があって私が対応しています。……タクヤ様。申し訳ありませんが、ヴァルター侯爵にお茶を持って行っていただけませんか?」
「え? 俺が」
なんで俺? 確かに料理人のアベルさんが持って行くわけにはいかない。しかしメイドさんが……と思ったら、メイドさんもなにやら忙しそうにしている。これは、俺が行くしかないのか? そんな状況で断るわけにはいかない。正直、行きたくはない。あの黒衣の侯爵様の前に出るなんて考えただけで喉が渇く。それでも行くしかない。
「わかりました」
「客人であるタクヤに申し訳ありませんが」
「いいえ。大丈夫です」
いや、全然大丈夫じゃないけど。それでも俺はトレイに茶器を乗せ、静かに書斎へと向かった。
扉の向こうでは低い声で話しが交わされていた。
「――婚約の件は進んでいるのか?」
婚約? その声にドアをノックしようとする手が止まる。
「いえ、まだ……」
「私の姪で家柄も侯爵だ。伯爵の君は断れまい。情は必要ない。貴族は義務で婚姻するものだ」
婚約者? レオニスさんに? 相手はヴァルター侯爵の姪……。つまり、この黒衣の男と縁戚になるのか。いやだろうな。
一瞬、手が震えた。カップの中の紅茶がわずかに揺れて、皿に一滴零れる。慌てて布で拭きとり、深呼吸してドアを叩いた。
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