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沈黙の婚約7
帰りの馬車の中はやけに静かに感じられた。1人なのだから静かなのは当然のことなのに、それがやけに感じられた。車輪が石畳を踏む規則正しい音だけが密閉された空間に反響している。馬車に乗る前からイラついていた心は、馬車に乗ったことで余計にイライラした。イライラしている原因はわかっている。あの、神の使いである黒猫を連れた異世界人だ。
膝の上で組んだ指が白くなるほどキツく組んでいる。窓の外の流れていく王都の夜景がガラス越しにぼやけて見える。
あの屋敷にいたのは短い滞在だった。30分もいなかったはず。それでも、レオニス様のちらりと見えた表情。あれを見て私は微かに焦った。とはいえ、表面的に問題があったわけではない。礼儀正しいし、自分を婚約者として扱い、形式も言葉も決して礼を欠いてはいなかった。けれど……目は一度も私を捉えはしなかった。その事実が鋭く胸に刺さる。確かに形式上の名ばかり婚約者なのはわかっている。それでも、今までは私を視界に入れることはあった。でも、今日はまったく私の姿が視界に入っていたとは思えない。会話の最中、顔はこちらを向いていた。それでも視線は私を見てはいなかった。私を通り越して別の誰かを見ている感じがした。誰かを探すように。あるいは、そこにあるものを確かめるように。そして気がついた。あの異世界人。伯爵家らしくいい服装をしていたけれど、どこからどう見ても庶民の青年。彼が部屋に来たとき、レオニス様の表情が、ほんのわずかに和らいだ。その表情は一度も私に向けられたことはない。なのに、あの庶民の少年は簡単に向けられている。この私が向けられたことはないのに、なんていうことなの。婚約者として隣に立っているはずの自分には向けられないのに。血筋も、身分も、何一つ釣り合わないはずの庶民に私が負けたとでも言うの? 馬鹿げている。この婚約に感情が揺れるなどおかしな話しだわ。この婚約は叔父様から来た話し。貴族院議員の伯爵様。ご両親は事故でもういないという好条件。姑問題などがないというのは助かる。そんなことで神経を使いたくないから。そして、財産がたくさんある。そしてレオニス様は美形だ。隣に並んで歩いていて恥ずかしいことはない。逆に見せびらかすことができる。ほんとに結婚相手としては最高の人だ。どうせ貴族の結婚なんてそんなものだ。好きで結婚するわけではない。様々な打算があって結婚するもの。私はそのことになにも感じていなかった。けれど、今日のことはプライドが許さなかった。異世界人とはいえ、ただの庶民がレオニス様の視線を独り占めしていることがとにかく面白くなかった。侯爵家の娘の私よりも、あの異世界人の方がいいと言うのだろうか。ヴァルター家の一人娘で若くて見た目だっていい。言い寄ってくる男なんてたくさんいる。その私がいるのに、私には目もくれず、あの庶民を見ることが許せなかった。
そう思っていると、馬車が大きく揺れた。体が軽く揺れる。今の私はそんなことにさえ苛ついてしまう。馬鹿げている。そう思う。この婚約ははなから恋なんてなかった。いいえ、この婚約でなくとも、侯爵家の娘として生まれた私は、政治的な価値と引き換えに、安定した未来を得る。それだけの話しのはず。なのに、なに? なんでこんなに苛ついているの? 愛なんて必要ない。お金と地位さえあれば感情なんてどうだっていい。そう思っていたはず。けれど……。胸の奥がざわつく。焦燥と苛立ちと、言葉にできない不快感。それは初めて知る感覚だった。奪われる、という予感。自分のものであるはずの立場。将来、隣に立つはずの場所。そのすべてが知らない間に別の誰かの手に渡っているような、そんな感覚。許せない。静かに息を吐く。表情は崩さない。声も出さない。どんなときでも凛としていること。子供の頃から言われていたことだ。侯爵家の娘らしく。そう言われて育ってきた。だけど、心の奥でなにかが確かに芽吹いていく。
嫉妬。恐怖。
このまま放置すれば、あの人は完全に私から離れてしまうのではないか。侯爵家の娘の私を置いて。すべての原因はあの庶民の存在だ。庶民のくせに小賢しい。彼がいなければ。屋敷にいなければ。レオニス様はあんな青年のことなど忘れて、今までのレオニス様に戻るはずだ。それなら、消してしまえばいい。目の前から。レオニス様の目の前から。それは物理的な意味か、社会的な意味かそれはまだ定まっていない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
――あの庶民は邪魔だ。
邪魔なのであれば消せばいい。簡単な話しだ。消すと決まれば、どうやって消すか考えるだけだ。そう思うと表情が緩むのを感じた。
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