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偽りの手紙4

 目が覚めたとき、窓の外は淡い灰色だった。夜明け前とも朝ともつかない色。そろそろ屋敷が目を覚まし、活動を始める時間だけど、今はまだ静かだった。昨夜はほとんど眠れなくて、少しうとうとしただけで、こんな時間に目を覚ましてしまった。でも、出て行くのなら、この時間に起きたのは良かったかも。そうでないと誰かに会ってしまうだろうから。屋敷の人にはほんとに世話になった。執事のニコラスさん。俺付きのメイドのクララさん。料理のことを色々教えてくれたアベルさん。他の人も。誰かに会ってしまったら心が揺らいでしまうから、屋敷が起きる前に出ていこう。起き上がるとルナが枕元で寝ていた。 「……ルナ」  名前を呼ぶとルナは目を覚まし、伸びをしてから俺の方へ来た。時間は違うけれどいつも通りの朝。ルナは俺の手に頭を擦り付ける。その温もりに少しだけ救われる。そうだ。俺は1人になったんじゃない。ここを出て行ったってルナは一緒だ。だから、1人なんかじゃない。  今日は出ていく日だから、ここに来たときに着ていたパーカーを着る。それ以外の服はレオニスさんが誂えてくれたものだから。それは着ていかない。他に持っていくものはない。ルナを抱いて行くだけだ。机の上にはレオニスさんからの手紙が置きっ放しだ。好きな人からの手紙なら持っていきたいところだけど、内容が内容なだけに持っては行かない。  部屋を出る前に、ほんの少し躊躇する。この屋敷で過ごした時間が脳裏をよぎる。ここにいたのは2ヶ月ちょっと。でも、たくさんの思い出がある。でも、そんな中でも、市場へ行ったときが一番の思い出だ。レオニスさんは気軽に声をかけ、市場の様子を聞いていた。そして政策のことを考えて。そんなところが好きだった。そして、そうだ。帰りに賊に襲われた。レオニスさんが言うには、オマンド子爵の紋が入った短剣を持っていたという。その賊に2人で向かっていって、俺は右腕を切られて負傷した。傷が深かったらしく、俺が意識を失っている間に縫合された。その傷はまだ腕に残ってる。でも、襲われたおかげでレオニスさんと両想いだとわかったんだ。俺が目を覚ますまで俺の手を握っていてくれた。失うのが怖かったと言ってくれた。あのときは幸せだったな。思い出すと涙が出てきた。俺が涙を流したことに気づいたルナが腕の中で小さく鳴いた。 「ごめん。大丈夫だよ」  自分に言い聞かせるように、そう呟く。  部屋を出て玄関ホールへ行くと、朝の光で冷たく澄んでいた。ドアの前で一度だけ立ち止まる。今、出ていったら、もう戻ることはない。そう思うと胸の奥がぎゅっと痛む。  引き止める声はない。当たり前だ。まだ屋敷が目を覚ます前なのだから。屋敷が目を覚ましたら。レオニスさんが目を覚ましたら、俺は出ていく決心が揺らいでしまう。いや、揺らいだってレオニスさんが出て行けというんだから出ていくしかないんだけど。だからレオニスさんが起きる前でいいんだ。誰も目覚めていない今でいいんだ。   「行こう、ルナ」  そうルナに声をかけて、一歩外へ出たときに背後から声が聞こえた。 「……タクヤ様?」  それはニコラスさんの声だった。顔を見られるのも、話しをするのも辛くて、気づかなかった振りをしてドアを閉めた。ドアを閉めたところで屋敷に振り返り、頭を下げる。 「お世話になりました」  俺の声に続いたように、ルナも小さく1回鳴いた。それはルナの挨拶だったのか。ルナもこの屋敷では大事にされ、のびのびとして過ごしていた。ルナにとってはいい思い出だっただろう。俺が出ていくことでルナのそんな時間を奪うのは申し訳ないけれど、それは諦めて欲しい。  庭を過ぎ、門を抜けると、そこからはもう後ろを振り返らなかった。振り返ったらきっと歩けなくなる。だから、もう振り返らない。  ――さようなら、レオニスさん。あなたのことがほんとに好きでした。  心のなかで語りかける。この世界に来て、最初に会ったのがレオニスさんで良かった。出会えて良かった。そう思うのは嘘じゃない。辛い結末になってしまったけれど。  屋敷から少し離れた石畳の道を歩きながら、ようやく息を吐いた。どこへ行こうか。一瞬そう思うけれど、行くところは2ヶ所しかない。あの遺跡か、市場か。あの遺跡まで行けばもしかしたら元いた世界に戻れるかもしれない。でも、確証はないし、方角も距離もわからないから1人では行かれない。そうしたら、行くところは市場しかない。市場にはレオニスさんとの思い出がある。それでも生きていかなきゃいけない。俺の全財産はほんのわずか。市場から戻ったあとにレオニスさんがお小遣いとしてくれたんだ。パンをひとつ買えるだけだけど、とりあえず市場が開いたらパンを買って食べよう。そして、誰か雇ってくれる人がいないか探そう。生きて行くにはお金と住むところが必要だ。だから、まずは仕事を探す。あ、仕事は街中でもいいのか。でも、庶民の俺には市場がしっくり来る。だから、市場へ行こう。もしかしたらレオニスさんが来ることがあるかもしれないけど、レオニスさんも俺を見かけたって声をかけることはないはずだ。だから市場でいい。そう思って市場へ向かった。

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