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月下の追走3
パンとりんごを食べ終えても俺はすぐには立たなかった。ここにいたら寒いのはわかっているけれど、帰る気にはなれなかった。新しい部屋。ベッドとクローゼットがあるだけのがらんどうで、なんだか自分の部屋な気がしなくて。自分の部屋と言えるのは、屋敷のあの綺麗な部屋だと思って。馬鹿だよな。あんな綺麗な部屋が自分の部屋になるはずなんてなかったのに。実際に俺が行くまでは客間として使われていたみたいだし。そう。俺は客人だっただけだ。だからニコラスさんは俺が厨房に行くのに難を示したんだ。客人でなければあんな屋敷に足を踏み入れることもできなかった。俺は遺跡で倒れていて、通りかかったレオニスさんが助けてくれただけ。大体体調が戻ったんだったら出ていくのが普通だったんだ。それをいていいと言われたからずるずると滞在していた。そんなときにレオニスさんと両想いだと知って、余計に出ていくタイミングを失った。いつかは出ていくものだった。それはわかっている。でも、あんな手紙ひとつで出ていけなんて辛すぎる。『速やかにここを出ていって欲しい』この言葉が頭から離れない。仕事を探す暇も家を探す暇も貰えなかった。わがままかもしれないけど、仕事と家とを探してから出て行きたかった。そして、出ていくときはきちんと屋敷の皆に挨拶をしてから出て行きたかった。アベルさんやニコラスさん、クララさんには特にお世話になったから黙って出ていくようなことはしたくなかった。よっぽど挨拶をして出てこようかとも思った。でも、皆が起きてくるのを待っていたらレオニスさんと顔をあわせることがあると思って、まだ誰も起きていない早朝に出てきた。もっともニコラスさんには声を掛けられたけど、黙って出てきてしまったけれど。あれは、ほんとは挨拶すれば良かったかなと思わなくもない。でも、あそこで話していたら他の使用人の人たちが起きてきてしまいそうで怖かったんだ。レオニスさんの顔を見たくなかった。あんな冷たい文章の手紙を書いたくらいだから、なにか俺がしてしまって嫌われたのかもしれない。そう思うと怖かったんだ。レオニスさんを怒らせるようななにをしてしまったんだろう。それとも、リシアさんに俺がいることがバレて、貴族院でなにか不都合なことがあったんだろうか。それがよほどのことで、すぐにでも出ていって欲しいと思ったのだろうか。そう考えると余計に寒さを感じる。レオニスさんがいたからこの世界でも生きていられた。でも、もしレオニスさんがいなかったら、助けてくれたのが他の人だったら俺はどうしていたんだろうか。きっと、この世界に来たときのことを再現して、帰れないか試していたと思う。ルナを追いかけて転ぶ……。これをここで再現しても帰れるんだろうか。それなら、今、ルナを起こせばいいんだろうか。でも、ルナは普段は俺から逃げることなんてしないから、再現するのは難しい。それになんとなく、あの遺跡じゃないといけない気がした。あの遺跡へはどうやったら行けるんだろう。グリフォンに乗って来たくらいだから、ここ王都からはかなり遠いんだろうか。グリフォンにだってしばらく乗っていたわけだし。そう考えたら、俺1人ではあの遺跡へ行き着くことはできないんだろうか。こんなことになるんだったら、レオニスさんに出ていけと言われる前に遺跡に連れて行って貰えば良かった。それを調子にのってずるずると屋敷にいたからいけないんだ。馬鹿だよな、ほんと。でも、あの遺跡じゃないと帰れないのなら、俺は永遠に帰れないということだろうか。実家に帰らず、連絡も取れない俺に両親は心配するだろう。マンションに行くかもしれない。でも、そこに俺はいなくて、ルナの姿も見えなかったら、どう思うんだろう。きっと心配なんてものじゃないかもしれない。それに、友人の尋也だって連絡の取れない俺に心配するかもしれない。もう尋也や他の友達と会うことは出来ないのだろうか。両親だって尋也だって、まさか俺がこんな異世界にいるだなんて思わないだろう。ルナも一緒にいなくなったら、俺自身の意思でどこかへ行ったと思うだろう。ほんとは自分の意思で来たわけではないけれど。
そんなことを考えていたら涙が出てきた。帰りたい。レオニスさんがいないのなら、この世界にいる理由なんてないのに。なのに帰る方法がわからない。でも……。この世界の文字も読めるようになったし、長文はまだ無理だったけど、簡単な文章なら読めるようになった。そうしたら、長文はまだ無理とか言わずに辞書を片手に読めばなんとかなるかもしれない。でも、元いた世界に帰る方法の書かれた本なんてあるんだろうか? それにその本はどこで探す? 図書館? これだけ大きな都市だ。図書館くらいはあるかもしれない。明日、リズさんにでも聞いてみよう。そうしたらなんとかなるかもしれない。過度な期待をしてはいけないけど、多少の希望は持とう。帰れないと決まったわけではないのだから。
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