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帰還の魔道士3
声のする方を見ると空気が違って感じた。風が止まったわけでも、音が消えたわけではない。なのに肌に触れる空気がひやりと冷たくなった気がした。視線の先の人は黒に近い濃紺の地を引きずるほど長いローブを着、顔はフードの影に半分隠れていてはっきりとは見えない。
「魔道士か……」
隣でレオニスさんが小さく呟いたのが聞こえた。魔道士……。この人が。そう思った瞬間、喉がひくりと鳴った。理由はわからない。剣を持っているわけではない。こちらを睨んでいるわけでもない。なのに、近づいてくるだけで胸の奥がざわつく。怖くて目をそらしたいのにそらせない。見てはいけないものを見てしまったような感覚。
ローブの胸元に縫い込まれた刺繍が淡く光る。いや、光というよりは”揺らぎ”に近いかもしれない。空気が歪んで感じる。耳鳴りがして心臓の音がやけに大きく聞こえる。同じ人間じゃない。そう感じた瞬間、レオニスさんの腕を掴んでしまう。怖い……。
剣を持つ兵士よりも、怒鳴る貴族よりも、このなんとも言えない威圧感。魔道士は人の理屈の外にいるのでは……。そう思った。別に攻撃をされたわけでもないし、何を言われたわけでもないのに。怖い。レオニスさんがどこか遠くへ行ってしまう気がして、俺はレオニスさんの腕を掴む手を緩めることができなかった。俺は、やっぱりこの世界では異物なんだ。そんなことを考えてしまった。
「異世界人は久しく見るな。怖がらなくともよい。今の私は昔のような魔力はもう使えない。ただ、視えるだけだ」
視えるだけ? 俺が異世界人だとわかる人。それだけで怖いと感じてしまう。
「黒猫か……。神の使いが救世主を連れてきたか。隣にいるのは貴族か。きっとその救世主が世界を変えてくれる」
「世界を、変える?」
「そうだ。流れが大きく変わる。それに備えていればいい。そして異世界人。その黒猫のつけている鈴。それが異界とこの地を繋ぐ門の鍵だ」
「門の鍵?」
ルナの首輪の鈴がここと元いた世界とを結んでいる? そう言うのか?
「満月の夜に光を吸い、皆既月食の夜に門を開く」
皆既月食の夜に門を開く。ここと元いた世界の門がそのときに開くのならば、それは帰れるということになるんだろうか。
「……帰れるんですか? 元いた世界に」
思わず訊いていた。すると魔道士は頷きながらも静かに微笑む。
「だが、帰るには”心の重み”を捨てねばならぬ」
心の重み? それはなんだ?
「この世界に想いを残せば、門は閉じる」
そう言うと魔道士は俺とレオニスさんの横を通り、森の奥へと消えて行った。
皆既月食の夜に帰れる。それは喜びではあった。そう。喜びのはずだ。だけど、帰るということはレオニスさんと離れ離れになるということだ。先ほど考えていたことだ。帰りたいのかわからない。ただ、レオニスさんの傍にいたいと思うんだ。魔道士の言った心の重みっていうのは、そういうことだろうか。”この世界に想いを残せば、門は閉じる”そう言うのだから、きっとそういうことだろう。今の俺は帰りたいと思いながらも、この世界に思いを残している。だって、レオニスさんと離れ離れになることとか、今の俺には考えられないし、離れたくない。
俺がそう考えていると、隣にいるレオニスさんが口を開く。
「……もし帰る道があるのなら、迷うな。私はタクヤの世界を奪うつもりはない」
その突き放すとも取れる言葉に俺は唇を噛んだ。レオニスさんは俺がいなくても大丈夫だというのだろうか。
「あなたのいない世界に、帰れと言うんですか?」
「帰れとは言わない。けれど、帰るという選択肢もあるのではないか。そういうことだ」
帰る選択肢はある。それはわかっている。ただ、レオニスさんのいない世界に帰る意味はあるんだろうか。両親。弟。友人……。会いたくないわけじゃない。大切じゃないわけでもない。でも、レオニスさんも俺にとっては大切な人なんだ。失いたくない。そう思う程度には大切な人なんだ。だから簡単に帰るとは言えない。これがレオニスさんと両想いだとわかる前なら迷わず帰ると答えていただろう。でも今は違う。レオニスさんと心を通わせた。だから、帰ると即座には答えられない。俺はレオニスさんと離れ離れになるのは寂しいし辛い。けど、レオニスさんは違うのだろうか。
「俺がいなくなってもなんとも思わないんですか?」
そんなつもりはなかったけれど、問い詰めるような物言いになってしまった。
「そういうわけではない。タクヤと離れ離れになるのは寂しい。だから市場まで行ったのだ。けれど、ここにはご両親も友人もいないだろう。そこに縫い付けておくのは私のエゴではないか。そう思うのだ。だからタクヤの選択肢を摘み取りたくはない。それだけだ」
そうだ。レオニスさんは屋敷を出た俺を探しに市場にまで来てくれたんだ。そんな人が俺が元いた世界に戻っても寂しくないなんて思ったらいけないよな。
「俺、わからないんです。家族や友人に会いたくないわけじゃない。俺がずっと連絡も取れないとなったら心配もするかもしれない。それでも、レオニスさんのいない世界に意味なんてあるのかなって思うんです。だから……帰れなんて言わないでください。俺はあなたの傍にいたいんです」
「帰れとは言わない。私だってタクヤがいない世界は寂しい。それは本当だ」
そう言ってレオニスさんは俺の頬に触れ、唇に唇を重ねた。俺のファーストキスだった。
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