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夜明けの救出3
牢獄までの道のりは息を殺した獣みたいだと思った。灯りはあるのに温度がなくて、音もあるのに生きていない。そんな感じがした。
魔法使いのリカルドが低く詠唱すると、空気が一瞬歪んだ。次の瞬間、俺達の足元から影が溶けるように広がり、輪郭が曖昧になった。これで、影で俺たちが歩いていると気づく人がいなくなる。
「番兵は見ているものを信じる。疑わせなければそれでいい」
リカルドさんが小さく囁く声に俺は頷いた。返事をすると喉が鳴りそうで、首を縦に振るのが精一杯だった。辿り着いた牢獄の外壁は黒く、湿気を含んだ石が月光を鈍く弾いている。高い塔の上を巡回する番兵の視線がこちらにきた。
――来る
心臓が一段強く打つ。でも、怖いという感情は浮かばなかった。ただ、やるしかない、そう思って鼓動の音だけを聞いていた。
リカルドさんが指を動かす。次の瞬間、番兵の前になにかが現れた。それがなにかはわからない。酒瓶を抱えた見回り兵。ふらつきながら壁にもたれ、くだを巻いている幻影。
「……ったく、またか」
舌打ちする声。番兵の視線は完全にそちらへ引き寄せられて、俺達の存在は夜に溶けた。
合図を受けて俺は足音をさせないように、でも早足で歩いて鉄扉の影へ滑り込む。中は別世界だった。空気が重い。鉄と湿気、古い血の匂いが混ざって、肺に絡みつくようだった。ろうそくの炎が揺れて、長い廊下の両側で揺れている。その度に、壁に掛けられた鎖がじゃらりと鳴る。その音に、喉がひくりと動く。心臓の音だけがやけに大きく感じる。奥から足音が聞こえた。その音に俺はびくりとした。でも、手筈では、看守がくるはずだった。だから俺はそのまま動かなかった。片目に黒い眼帯をした男が影の中から現れる。体格は大きいけれど、動きは静かだった。
「……来たか」
低い声。リカルドさんが一歩引き、代わりに俺が前にでる。
「グランさん、ですよね?」
男は一瞬だけ俺を見て、それから周囲を確認するように視線を走らせた。
「ああ。時間はねぇ」
そう言って壁際の扉を指差す。
「ここを通す」
短く、ぶっきらぼうな言い方。でも、その声には奇妙な重さがあった。
「だがな」
グランさんは俺を真正面から見据える。片目の奥、残った瞳に複雑な光が揺れていた。
「2度と来るな」
彼は逃げ道を断っている。自分が選んだ裏切りをこれ以上重ねないように。俺はそれに気づいて黙って頷いた。失敗は許されない。
「一番奥の独房だ」
「……ありがとう、ございます」
俺がそう言うと、グランさんは鼻で笑った。
「礼を言われる筋合いじゃねぇ。借りを返すだけだ」
グランさんの頭の中にあるのはレオニスさんだろう。きっと彼もまた、レオニスさんに救われたのだろう。街に来て思う。ここにはレオニスさんに助けられた人がたくさんいる。その人たちがいるから今、こうして牢獄の中にまで入れた。俺1人じゃできなかったことだ。
鉄扉が軋みを立てて開く。中へ足を踏み入れるたびに音が増えていく。鎖が擦れる音。誰かが呻く声。嗚咽が壁を伝ってにじみ出てくるようだった。こんな場所にレオニスさんがいるなんて考えたくないことだった。拳を握りしめる。恐怖よりも、早くしなければ、という心臓の音がする。ろうそくの炎が揺れ、影が伸び縮みする。静けさが、張り詰めた糸みたいに細くて、鋭い。一歩、また一歩と歩を進める。この先にあるのは救いか、それとも破滅か。そんなことを考えるけれど、引き返すということは頭に浮かばなかった。
鉄と湿気の底で、俺はただ進み続けた。廊下の奥へ進むほど、空気はさらに重くなる。肺の奥に溜まる湿気が、息をする度に体が重くなる気がした。
壁沿いに並ぶ牢の中から視線を感じる。顔をあげる勇気はなかった。もし目があえば、ここから逃げ出したくなってしまうから。だから、大丈夫。怖くない。自分にそう言い聞かせる。怖さはある。逃げ出したいくらいには。それでも、鼓動は強く鳴っている。引き返せない。
「……急げ」
背後でグランさんの声が聞こえる。振り返らなかった。振り返ったら、グランさんの決意まで背負ってしまいそうで。
奥の曲がり角を超えたとき、金属が擦れる音がはっきりと聞こえた。誰かが身じろぎをした音。それだけで胸が締めつけられる。レオニスさんだ。間違いない。ろうそくの火が1本、強く揺れて、影が歪む。その揺らぎの中で、俺は初めて祈るような気持ちになった。どうか無事でいて欲しい。いつもの優しい声を聞かせて欲しい。俺は足を止めずに、闇の奥へと踏み込む。もう戻れない。それなら進むまでだ。レオニスさん、待っていて。
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