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第1話

ねぇ、その時のことを覚えている? あれは良く晴れた気持ちの良い春の日だった。忘れるはずもなかった。それは君と過ごした俺の中に唯一残る、幸福という名前の記憶だ。 ねぇ、その時のことを覚えている? 部屋から玄関まで折れたり曲がったりしながら延々と続く長い廊下は、その頃になると薄暗く湿気を帯びた空気に包まれている。完璧に磨き上げられたそこに立って中庭の空を見上げると、今日は見事なまでの満月だった。それに無意識のまま目を細めて、耳を欹てると遠くで虫の鳴いている声が聞こえる。風流を風流と思えるほど人間的に教養がないわけではなかったが、ただそんなことを抜きにしても余りにも美しい漆黒だった。人間が寝静まった後の静寂は、こんな風に響いて夜を作っている。徳川(とくがわ)は足を止めて、不意の思いつきで廊下から中庭に降り立った。先ほど今日の業務の終わった徳川は、そろそろ本家から出て行かなければならない時間帯だった。毎日のように変動する予定と業務内容に、正確にそれがいつと決まっているわけではないから、少々ふらふらとしていても咎められないのが事実ではある。明日は夏衣の帰る日だから、迎えの車も出さなければならない。考えながら本家の庭師によって丁寧に手入れされた庭を、裸足で歩く。柔らかい土を踏むと、それが微量な冷たさを伴って徳川の感覚を捉える。この時期こんな風に気分が塞ぐのはどうしてなのだろう、どうしてこんな風に感傷的になっているのだろう。徳川には分からなかった、いや分からないふりをしていたかった。 「何をやっておられるのですか」 不意に徳川の背中にそう声が投げかけられて、思わず振り返る。特別悪いことをしているわけではないが、使用人の分際で中庭を裸足でうろうろしているそのことが、決して褒められた行いではないことを徳川も良く分かっていた。振り返ったその先で、廊下の柱に凭れている斉藤(さいとう)がこちらを見ているのと目が合った。相変わらず神出鬼没な男である。斉藤は少しばかり成人男性と比べると声が高い。女の子のように小柄で痩せ型の男は、いつものようにその口元に意味深な微笑を浮かべている。男のことが苦手だった。斉藤は細い目を薄く開いて、その粘膜をこの暗がりに怪しく光らせている。こんなところで斉藤に捕まるようなことが分かっているならば、早く帰れば良かったと徳川は後悔しながら廊下の側まで戻った。しかし磨き上げられたそこに、汚れた足で踏み込むのを躊躇して仕方なく中庭の飛び石の上に立つ格好になる。 「もう帰ったのかと思っていましたよ」 「すいません、これから帰るところです」 その時斉藤は徳川のそれを咎めることはしなかった。元々そんな上からものを言う男ではなかったせいもある。斉藤のいやらしいところは、低姿勢のまま執拗に皮肉を言うところにあると徳川は勝手に思っていた。それでも立場上高位に当たるその男のことを、私情とともに遠ざけることは出来ずに、仕方なく徳川は話を合わせながら何となくの抵抗を示すために目線を反らしていた。すると斉藤はそれに気付いているのか、もしくはいないのか、一体どっちなのか徳川には判別し辛かったが、勿体をつけるようにふうと溜め息を吐くと、徳川と同じように何処か心はここにないといった雰囲気のまま、満月の美しい四角い空に目をやった。そしてより一層、その斉藤のアイデンティティとも思える意味深な笑みを深くする。それに眉を顰めながら斉藤が一体何を見ているのか分からず、視線を追ったがそこにはやはり漆黒が広がるばかりだった。 「それも仕方ないかもしれませんね、こんなに良い夜ですから」 「・・・え・・・」 まさか斉藤がそんな風に切り返してくるとは思わずに、不意打ちを食らった徳川はそれに声を詰まらせる。斉藤はこんな風な穏やかな口調で世間話をするような人間ではなかった。そんなこと徳川は痛いほど理解している。では一体何故なのか。斉藤の思惑が分からず、徳川はそれに恐怖すら覚えた。しかしそんな徳川の心中など簡単に見透かしているかのように、斉藤はゆっくりと満月を見上げていた首を元に戻して、いまひとつはっきりと表情の浮かんでいない徳川のほうに目をやった。 「聞こえるでしょう、貴方にも」 「・・・聞こえる?・・・あぁ、確かに虫の声が・・・―――」 手入れされている白鳥(しらとり)の中庭に風情の名のもとに虫の鳴く微かな声が響いていた。それに耳でも傾けるように、斉藤は一度目を瞑る。 「違いますよ」 「もっと別の、ほら貴方の大事な人の声が聞こえるでしょう」 目の前が真っ白になって、一瞬斉藤の姿を見失った。この夜は作られている。誰かの強い意志が介入している。そうでなければ、このような美しい形を留めておくことは出来ない。斉藤は笑っていた。本当に聞こえていたのは、その時ふたりの鼓膜を揺さぶっていたのは、虫の声なんかではなかった。 「・・・ってめぇ!」 血管の切れる音が耳元で響いた。気が付けば土で汚れた足のまま、廊下に飛び乗っていた。全くそれを避けるともしない斉藤の首元を簡単に右手が捉える。がたがたと煩い音を立てて、頼りない障子に斉藤を押さえつける。しかし斉藤はそれにろくな抵抗も見せずに、全くの無表情で激昂する徳川をただぼんやりと捉えているだけだった。ぜいぜいと一瞬のことで息の上がった呼吸器官の煩い雑音が、徳川の耳元を支配している。それでもこの夜の湿った雰囲気に混ざって、あの人の切ない声が響いているのが分かった。それに肌を刺されている、良心という良心を嬲られている。噛んだ唇が痛くて痛くて、それでもそれ以上にどうして良いのか分からなかった。あの人のために自分の出来ることなら全てやって見せる自信と覚悟はあるけれど、何があの人のためになるのかが分からなかった。白々しいほど無表情の斉藤の襟首を掴んで震える。本当に殴りつけたいのは斉藤なんかではなかった。それが余計に徳川に絶望を見せ付ける。あの人のために出来ることなど、自分には何もないのだとも思い知らされる。それ以上の意味のない諦めとともに、斉藤の首を掴んでいた力がするすると抜け落ちた。そうして自身の不甲斐無さに項垂れる徳川を前にして、斉藤は今日一番の良い笑顔を見せる。 「何を怒っているのか分かりませんけれどね」 「本当のことでしょう。貴方は知っているのですか」 「この屋敷の何人があの声に耳を澄ませているのか、そしてそれを夜な夜な思い出して一体何をしているのか」 闇を裂いて嬌声が響く。徳川は目からぼろぼろと涙を零しながら、廊下に崩れ落ちた。耳を塞いで首を振って、そんな幼稚な仕草で拒絶しているつもりだった。目に見える現実というものから、そうして自分を遠ざけているつもりだった。距離を取れば取るほど、出来なくなることが増えるのは分かっていた。しかし最早徳川にはそうすることしか出来なかった。その大事な人が声にならない声で苦しんでいるさまを、まさか直視出来なかった。そんな風に図太く生まれてこなかったことを、何度かは後悔してまた同じだけ安堵した。しかしあの人は違う。何もかも受け入れているだけに、全てを諦めている。それは徳川のような耳を塞いで目を反らすこととは、真逆の位置で成り立っている。あの人はきっと笑うに違いない。そしてその白くて長い指で、それでもその人は徳川の濡れた頬を撫でて、慰めの言葉を優しく呟くのだろう。分かっていた。濡れると分かっている頬を、そうして自分が更に濡らしてしまうことも、徳川には想像出来ることだった。 「貴方は知っているのですか」 だってそんなどうしようもない現実など、正確に捉えて一体何になるというのだ。そんなことで一体誰が救われるというのだ。歪んだ視界の中で斉藤の声が響く。開いたままの目からぼたぼたと涙が零れ落ちていて、完璧に磨き上げられている廊下の上をゆっくり滑っていくのが見えた。 誰も救われない。あの人は特に、それとは掛け離れたところにただひとりで立っている。

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