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第2話

翌日、扉を開くといつものように夏衣(なつい)は何でもなかったように、こちらに背を向けてそこにだらしなく座っていた。徳川はそれを見ながら何か黒いものに心中を簡単に汚される。何でもないことだった、確かに夏衣にとってそれは、何でもないことのひとつに違いなかった。誰もこの人の心に近づけないから、誰もこの人の心に届かない。それは夏衣が拒絶しているのか諦めているのか、どちらでも良かった、どちらの未来も結局は同じ形にしか見えなかった。細い体を軋ませて、夏衣が無言のまま立ち上がる。すらりと伸びた手足が美しいが、全く血の気のない白い色をしている。夏衣がそこに淡い色の着物を身に付けていないことだけが、徳川には唯一の気休め程度の安心を齎してくれている。一度目の前に広がる畳に額を突けるようにして、一礼する。顔を上げると夏衣はこちらを向いて、優しく笑っていた。開け放たれた襖の奥には昨夜のことが嘘のように、穏やかさを味方につけている中庭が、しかし昨日と同じ様相でそこに我が物顔で鎮座している。徳川は一体それに何と返したら良いのか分からずに、ただ黙ってもう一度視線を伏せることしか出来なかった。 「車の準備が出来ました」 「そう、早かったね」 東京から毎回夏衣が持って来ているスーツケースの中身を、徳川は知らない。夏衣がそれを開けているところを、徳川は見たことがないからだ。不必要なそれを一体どうして夏衣が毎度引きながらやって来るのか、徳川にはそうして理解することが出来ない。知らないそれを夏衣の代わりに引っ張りながら、この細い腕と体でこれを運んで東京まで帰ることが出来るのか、徳川は自分でも無意味だと分かっているが、そんな不安に毎度駆られる。しかしそんなことを無言で前を歩く徳川が、まさか考えているなどと思いもしていないのだろう。途中で擦れ違う女中に、夏衣は笑顔を見せながら逐一会釈をしている。白鳥嫡男のそういう腰の低い振る舞いに、女中達は困惑しながらもただ頬を染めて俯いている。美しい人だった、それ以上に悲しい人だったが、そういう時の夏衣はこちらをはっとさせるほど美しい表情をしていた。その度に心臓を直接握りこまれているような、そんな危うい気持ちになる。思わず押えた胸の下で、自分のそれはいつもと同じ速さで脈打っているのが分かった。どうせならそのまま、握り潰してくれないかと、振り返ったその先で夏衣は穏やかに笑っている。 東京に夏衣が住むようになったのは、夏衣が東京の大学を志望し、受験した時からだった。その当時まだ徳川は夏衣の世話係筆頭ではなかった。徳川の祖父が夏衣の身の回りのことをしていたのだという。祖父が高齢のため引退した後、その祖父の口添えで徳川は夏衣に引き合わされることになった。元々徳川の家は代々白鳥の使用人として仕えていたから、物心ついた時にはきっと自分もいつか白鳥の世話をするようになるのだろうと考えながら生きてきた。誰かのために自分の人生を消費しなくてはならないなんて考えただけで嫌気が差したが、勿論それに抵抗出来るような力があったわけでもない。祖父に言われるままに、夏衣と面会したのが3年前になる。その時夏衣は22歳で、目を覆いたくなるような秀麗さとともにそこに在った。自分の人生をこの人に捧げるのだと、徳川はその時も床に額を擦りつけるように礼をしながら考えた。どう考えても明るい未来が待っているとは思えなかったそれが、夏衣の存在によって全て消去された瞬間だった。しかしただ夏衣は美しいだけの青年ではなかった。その圧倒的な秀麗さの影に、時折隠微なものが見え隠れしていた。そうしてその理由を、本家に出入りし始めた徳川は嫌でも理解させられることになる。それを知った時の臓腑を抉るような痛みを、そして徳川は忘れていない。きっと夏衣とともにある以上、悲しいかなそれを忘れることは出来ない。出来ないのだと、気付いた。 「どうしたの、徳川」 不意に後ろからそう声をかけられて、徳川は思考をそこで途切れさせ我に返った。見ればバックミラーに映った夏衣が、白いシートに体を深く埋めてこちらを見て可笑しそうに唇を歪ませているところだった。思わず徳川はそれに首を振る。夏衣はそれを見ながら子どものように無邪気な笑い声を立てた。それは昨日の嬌声とリンクしない、非常に夏衣を無垢な存在に思わせる。 「今日は随分大人しいじゃない、どうしたの、また苛められてるの」 「そんな・・・そんなことありません。というか苛められたことなどありませんから!」 「あぁ、そう。そうだったかなぁ・・・」 丸きり信じていない口ぶりで、夏衣はまだ何処か笑い声を噛み殺しつつ、そっと窓の外に目をやった。そういえば良く笑う人だった。何かといって深刻そうにしているよりは、明るく微笑んでいる印象のある人だった。しかし時折夏衣のそれが、徳川には痛々しく映ることがあって自身のそういう遣り切れない気持ちと葛藤していた。夏衣の周りを取り巻いている環境というものが、そんな風に明るく笑い飛ばすことの出来るものではなかったせいだろう。では何故その当事者である夏衣本人がそんな振る舞いを常日頃していたのか。それはこちらに余計な感傷を抱かせぬ用途の夏衣の気配りだったのではないかと徳川は考える。そんな想像に更に胸を焼かれて、徳川は言葉を詰まらせる。思えばそればかりを繰り返してきた3年間だった。そうして夏衣の周りは良いほうにも悪いほうにも変化せず、それとして今日もそこにあった。夏衣にとってみれば日常のそれは何でもないことで、けれど何でもないことだとそれを片付けてしまうには、それは余りにも重々しい酷薄さを秘めていた。その細い体と細い手足で支えることなど到底出来やしないのに、夏衣が誰にも頼らないことが、徳川には不思議でならなかった。誰かが圧倒的な力で夏衣をそこから引き摺り出してくれるのを待っていた。恐らく自分には到底出来ないような事を、無責任に誰かという不確かなものに縋って、それでも待っていた。 「夏衣様・・・」 同じ人間をまるで次元が違うように、そんな仰々しい敬称をつけて呼ぶ日が来るとは思っていなかった。けれどこれに対する違和感も、日が経つ内に薄らいでいって今はそう呼ぶのが当然と教え込まれている。夏衣もそう呼ばれ続けてそれが当然になってしまったのだろう。相変わらず眼は代わり映えのしない外の景色を追いかけて、何処かぼんやりした声でそれに呼応した。徳川はそれをバックミラーで確認しながら、少しは反論してやろうと考えていた。しかし夏衣がいつも本家に出向く時に着ていて、帰る時にも同じように纏う漆黒のスーツから、伸びている細くて白い首の根元に似つかわしくない赤い歯型が残っているのを見つけて、一体それに何と返すつもりだったのか分からなくなってしまった。それは生々し過ぎる形をそこに留めて、昨夜の嬌声を呼び戻す。出来ることなら目を覆いたかった。代わりにきつくハンドルを握った手のひらが、いつの間にか滲み出た汗で滑っている。何も出来ないのだとその歯型が自分を笑っているような気がして、徳川は見えないその奥の男に震えていた。それは傲慢に体の表面に刻まれた、男のものである印だったのだろう。 「・・・―――っ!」 嘗て夏衣ほど誰かひとりの男に、征服されている人間を見たことがない。そして夏衣はおろか、夏衣を取り巻く人々もそれには屈服している。誰一人男には反抗出来ない。全員が全員、それを見限ってしまっているのだ。その檻の中で夏衣は咽返るような色香と、悲しい傷跡を兼ね備えて存在している。それが徳川の良く知っている夏衣の有様だった。悲しければ悲しいほど夏衣は美しく、美しければ美しいほど夏衣は悲しい生き物だった。握ったハンドルが汗でまた滑って、徳川はアクセルを踏み込んだ。今まで安定して走行していた車が突然衝撃とともにガコンと嫌な音を立てて、一瞬止まった後急発進した。後部座席で自身の体すら満足に支えられない夏衣が、頭からシートに倒れこんだのが見えた。そんな風にしてしか、こんな風にしてしか、自分は夏衣を翻弄することは出来ないのだ。徳川は全くブレーキを踏まずに、赤信号を無視して車を駅ではない方向へ夢中で走らせた。考えながら頭の中で糸が、一本また一本切れる音を聞いていた。次バックミラーに姿を現した夏衣は、榛色の髪をぐしゃぐしゃにした何とも無残な格好で、元々白かった頬を青色に染めてもう笑っていなかった。それで良いと思った、笑う必要など何処にもないのだから、夏衣が笑うことはないと思っていた。 後からその時のことを思い出しては、なんて未熟で馬鹿馬鹿しいことをしてしまったのだろうと後悔することがある。しかしその時アドレナリンで満たされていた自分の脳内は、このまま夏衣と心中するのも有りだろうなと考えていた。夏衣が一体どう思っているかなど、その時は最早眼中になかった。そのことが本当は一番大事なことだったのに、徳川はそれを考えることを早期に放棄していた。ただ自分の胸がこれ以上軋んだ音を立てないように、自分の耳がこれ以上夏衣の嬌声を捉えないように、出来ることは僅かにそれくらいのことだった。だったらそれがイコール死という選択になっても、別段そこに恐怖はなかった。怖くはなかった、このまま夏衣の側で何も知らないような顔をして、下唇を噛んで耐え続けるほうが、余程拷問に思えてならなかった。バックミラーに映った青白い夏衣は、口を開いて徳川を窘めることをしなかった。何故かしようとしなかった。ただ少し悲しい目をして、徳川を見ていた。夏衣はそういう目をして、兎角その美しい双眸に映るものは何でも諦めていた。実際それがひとつとして夏衣の所有になったことを見たことがない。そうして何でも欲しがるより前に諦めることを覚えてしまった夏衣は、死というものをそこで諦めて待っているのかもしれないと思った。 暴走する車内は驚くほどの静寂に包まれている。

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