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第3話
何度か信号を無視したような気がしたが、制限速度など余裕で超えていたと思ったが、結局何処にも追突することはなく、誰とも事故を起こすことはなかった。行き場を失った白鳥家の所有物である黒の高級車は、人気のない倉庫街で不意に止まった。運転席の徳川は黙ったまま、乱暴に扉を押して外に出た。急停車により揺れた車内の中、夏衣は後部座席の上で何度か頭を打ちつけて、引っくり返って殆ど倒れこんでいた。その後部座席の扉を開くと、何かの玩具みたいに手足の長いその人は、それで自分を守るように丸くなってぴくりとも動かなかった。徳川はそれを見ながら眉を寄せて、手を伸ばして夏衣の顔を隠している榛色の髪の毛をそっと退けた。すると夏衣も気がついたのか、ゆっくりと首を動かして覗き込んでいる徳川の視線を捉えた。血管が透けるような白さの頬が引き攣って、無理矢理笑顔を作る。どくんと大きく心臓の跳ねる音が聞こえた。思わず手を引っ込めようとして、徳川の双眸が夏衣の首を捉える。生々しい歯形は、妄想なんかではなかった。運転席に居た時バックミラー越しに見えたそれよりもはっきり、男は夏衣の中で生きていた。
「・・・とくがわ・・・」
殆ど掠れて聞こえなかったが、それは夏衣が自分の名前を呼んでいたのだろうと思う。そんなことを判別している余裕など、その時徳川にはなかった。ただ夢中で夏衣の細い肩を無理矢理押さえつけて、漆黒のネクタイを強引に引っ張ってそこから引き剥がそうとした。突然のことに夏衣は徳川の腕から逃れようと、狭い後部座席で体を捻った。しかしするするとネクタイは引き抜かれて、夏衣の首元は瞬く内に露になる。赤黒く首元に歯の形が並んで見える。脳がぐらぐらとそれに茹っているのが分かった。もしかしたら怒りだったのかもしれないし、嫉妬だったのかもしれない。もっと他のもっと美しくて穏やかな、気持ちの名前はそこに似つかわしくなかった。徳川はいつも黙って夏衣の側に座っていることしか出来なかった。そしてそんなことではもう、自分はいよいよ満たされないのだって良く分かっていた。泣きそうになった目元に一気に熱が集まる。夏衣の白いシャツに手をかけた殆どそれを破るようにふたつに裂いた。ボタンがあちらこちらに飛んで、ガラスに当たって乾いた音を立てた。
「とくが、わ!」
今度ははっきり夏衣がそう自分の名前を叫んだのが聞こえた。だがそれが一体何を示しているのか、その時徳川には理解出来なかった。ただ目の前には酷く無防備な夏衣が転がっている。痛々しいほどがりがりに痩せた肌は真っ白く、傷ひとつもないように見えた。ただそう見えただけだ。夏衣の顔の側に手を突いて、筋の浮き出た首を舐めた。歯形が目に入ったが、それは知らない振りをした。夏衣が自分の方を弱い力で押し返している。もう何でも良かった、白鳥だとか権力だとか地位だとか、そんなことは些細なことだった。自分だけは夏衣をそこから救える特別な人間になったつもりで居た。そうして夏衣だって同じようにそのことを望んでくれている。ただそう信じていた。それで例え命を落すことになっても、後悔なんてしないと思った。夏衣のために死ねるのならば、それは酷く偉大なことのようにも思えた。恍惚が頭を支配する。もどかしいまま夏衣のベルトに手をかけ、それを無理に取り去ってしまおうとした。その時だった。
「徳川、止めろ」
低い声が耳元でした。はっとして顔を上げる。夏衣がこちらを見ていた。桃色の双眸を決して濁らせることなく、はっきりと拒絶の念をそこに浮かべて、夏衣はそこに確かに転がっていたが、もうそれは無防備な姿なんかではなかった。血の巡りの良かった頭から、一気に血液を持って行かれて、徳川はふらふらと後退した。車の外に体を押し出すと、青白い顔でぺたんとアスファルトに腰を据えた。がたがたと指の端から震顫が這い登ってくる。それは確かに恐怖だったが、それ以上に徳川はそれが恐ろしかった。自分の行為が決して許されることではないことを、徳川は誰に言われるまでもなく瞬時に理解した。白鳥嫡男を一体どんな理由があったとはいえ、こんな風に押し倒して許される筈がない、ましてその肌に直接触れることを許す筈もない。それは誰でもない、当人である夏衣ですらない、あの男だ。後部座席でぼろぼろのシャツの前を合わせて、夏衣がゆっくり起き上がったのが見えた。見えたのはそこまでだった、そこから先は滲み出た涙のせいで良く見えなかった。ぼろぼろとそれが生成されては決壊して、を延々と繰り返す。そんな幼稚で安易な方法で徳川はその時絶望していた。そんな徳川を見ながら、夏衣はひとつ溜め息を吐いた。それに徳川の顔が一層歪む。子どものように肩を震わせてしゃくり上げながら、徳川は震顫の酷い手を合わせて、アスファルトに額を突き合わせた。まさか夏衣の顔など見ていられなかった。
「・・・ず、すみ、まぜん・・・」
「ず、みま・・・俺、お、れ・・・あぁ・・・―――」
嗚咽のせいで殆どが言葉にならないそれを必死に繋げて、徳川はそれでも夏衣に伝えているつもりだった。なんと言う浅ましい行為に及ぼうとしたのか、それは徳川が忠誠を誓うべき夏衣の奥の男のことを、密かに嫌悪しているまさにそれと同等のことを夏衣にしようとした。圧倒的に力に差異のあるその夏衣を組み敷いて、夏衣の声など聞かずに。唇を噛みながら許されてはいけないと思った。何と言い訳をしても、許される筈はないと思った。しかし徳川がアスファルトに額を打ち付けるのを、夏衣はやんわりと制して頭を上げるように促した。濡れた視界で夏衣はぼんやりと目を前方に向けていた。それは徳川の良く知っている夏衣の諦めの姿勢だった。一体何を諦めているのか、徳川は必死で考えた。考えているうちに目の前が濡れて夏衣がぼやける。額を濡らす血が涙と混ざってアスファルトの上に落ちていく。固いそこに立てた爪が、めしめしと嫌な音を立てている。そんなことはどうでも良かった、徳川の全ては夏衣の側に今後も居られることを前提としたものだった。これで夏衣に見限られては、何の意味もない。すっかり黒で塗り固められた視界で、夏衣がこちらを向くのが分かった。何処に居ても夏衣の存在だけが自分の全てだ、もうそれだけだ、それだけしかない。それだけで充分だった。
「泣くなよ、徳川。吃驚しただけだよ、大丈夫」
「・・・え・・・えぇ・・・な、なつい、なつい、さま・・・」
「大丈夫、だからねぇ、徳川も魔が差しただけだろう。本気で俺にあんなことしようとなんて、してないよね」
「・・・あ・・・―――」
笑いながら夏衣は、強く徳川に肯定を促した。そうだと言えば良いだけだった。自分はただそうだと言って、夏衣が望むのならばそう言って、自分だけは自分こそが夏衣に安楽を齎すべきだった。だけどその時徳川は、それにすぐに答えることが出来なかった。夏衣の望む答えを、弾き出すことが出来なかった。何故なら徳川は、そうではなかったからだった。簡単なことだった。夏衣の側に置かれた自分が、夏衣の色香を吸い続けた自分が、魔が差したなんて言葉で片付けられるのを、ただ純粋に拒絶した。それだけのことだった。夏衣は中々返事をしない徳川を見ながら、不思議そうな表情を浮かべる。その白い首筋には赤い歯形と自分の唾液がこびりついている。徳川は首を振った。夏衣に良く分かるように首を振った。左手で頬を擦って涙を払って、それでも上から流れてくるので頬は依然濡れたままで最早どうしようもなかった。
「すみません・・・」
「何言ってるの、徳川」
一瞬夏衣の顔が険しく歪んだ、ような気がした。
「すいません、俺、おれ・・・好きな、んです」
「・・・え?」
一瞬何のことか分からずに、夏衣が顔を引き攣らせる。徳川は流れてくる涙を両手で擦りながら、肩を震わせて俯いていた。それでも言葉だけは自棄に明瞭に響いて、双方に事実をはっきりと認識させた。徳川は俯いたままの格好で、無意味な謝罪を繰り返している。夏衣はそれを見ていた、諦めとは違う感情がその中には芽生えて夏衣を侵食しようと内から突いてくるのが分かった。
「ずみま、・・・なつ、い、さ・・・好き、なん・・・っ・・・」
「・・・うん、そう・・・」
「好き、な、・・・あぁ・・・う・・・―――」
それが何なのか、夏衣には良く分からない。後部座席を這って行って、涙でぐしゃぐしゃの顔をしている徳川に手を伸ばした。徳川はそれをどう理解したら良いのか理解出来ていない表情で、おろおろと忙しなく目を泳がせている。更に手を伸ばして、夏衣は徳川のことをぎゅっと抱き締めた。同時にひっと耳元で徳川が短い悲鳴を上げる。その不器用な生き物が何だか妙に愛しく思えて、夏衣はそのまま徳川の背中を何度か撫ぜた。しかし徳川はだらりと腕をアスファルトにつけたまま、決して自分から夏衣に触れようとはしかなかった。
後にはか細い嗚咽だけが聞こえるだけとなる。
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