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第4話

「・・・徳川、お前に話したいことがあるんだ、聞いてくれるかい」 耳元で優しい夏衣の声が響く。どうしてこんな音を出す人のことを乱暴に組み敷いたり出来たのか、徳川は自分でも理解出来ずに、その自責の念に只管耐えていた。一向に震えのおさまらない徳川の背中を撫でていた夏衣は、不意に体を引き離すと徳川の濡れた頬を撫でて涙を払った。きっとそうして笑うのだろうと思った。夏衣に余計な心情を抱かせないこと、夏衣を出来るだけ平穏へと導くこと、徳川は自分で決めたそのことに裏切られ続けている。けれど夏衣は裏切らなかった、想像通りに冷たい手のひらで徳川の頬を撫でると、やはり優しく微笑むのだった。それに一層涙腺を刺激されて、徳川は深く俯いた。 「大丈夫、誰にも言わないから。俺さえ黙っていれば、お前が処罰されることはないよ」 「・・・ちが、・・・ちが、いま、す。俺、そんな、・・・ことじゃ・・・」 確かに白鳥嫡男を一度は犯そうとしたその行為が、例え未遂で済んだとしても男の耳に入れば自分はただでは済まされないことは良く分かっていた。徳川だってもう何年も白鳥の空気を吸って生きているのだ。そこの掟はそこで暮らすものだけが知る、暗黙のルールに満ち満ちていた。しかしそれも全てとは言わないが殆どを、熟知しているつもりだった。特に白鳥嫡男には手を出さないこと、当主である白鳥に寵愛を受けているその人が、何故生々しい傷跡をつけているのか、徳川には理解出来ない。愛とはそんなものではないと思っていた自分こそが、この手で全体重をかけて夏衣を押し倒したことを、震顫しながら無理矢理認識させられる。未だ震えの治まる気配のない徳川の右手をそっと夏衣が取り上げて、徳川はそれにはっとしたように顔を上げた。許されなくても構わなかった、許されないことをしたのだと理解しているから別段そこに恐怖はなかった。しかしそれが夏衣の側を離れることになるのだとすると、途端徳川はそれに畏怖した。右手がぶるぶるとまた目で分かるような震えを蘇らせて、徳川は首を振った。夏衣はそれを静かな瞳で見返している。ぎゅっと更に強く、握り込まれた右手が痛いほどだった。 「・・・何処か、何処か、に・・・行かないで、下さい・・・な、夏衣・・・さま」 「うん、行かないよ」 「そ、ば。そば、に置いて、おれ、のこと、・・・み、見限ら、ないで・・・」 「うん、大丈夫、大丈夫だよ、徳川。ねぇ、俺はここに居るでしょう。お前の側に居るでしょう」 幼子をあやすような口調で、夏衣は徳川にそう囁きながら優しく笑んだ。ひくりと喉の奥が痙攣する。依然涙は止まらなかったが、ようやく震顫はその影を潜めてきた。夏衣はそれを見ながら徳川の手をゆっくり離して、後部座席から降り出し、運転席の扉を開いた。相変わらず酷い格好のままだったが、夏衣はアスファルトの上に整然とした強さで立っており、きっちりとツーピースのスーツを纏っているがそこに腰を据えて涙をぼろぼろ零している徳川のほうが、余程弱弱しい生き物のように思えた。夏衣のぼろぼろのシャツが風に吹かれて白く舞っている。何故だか自棄にそれが目の奥に張り付いて取れない。夏衣はそこで運転席の扉に手をかけたまま、未だアスファルトの上に座っている徳川を振り返った。 「乗って」 強い声をしていた。強い目をしていた。夏衣は栄養失調手前のがりがりに痩せた自分の体すら満足に支えられないほど非力な生き物でありながら、その一方で何処か秩然とした勇壮さの片鱗を見せる時がある。それは徳川自身の意思とは無関係に徳川の足を動かすと、ふらふらの体で徳川は夏衣が先刻まで座っていた後部座席に吸い込まれるように着席した。夏衣は運転席でシートベルトを締め、その細くて長い指できゅっとハンドルを握った。ややあって車は微弱なエンジン音を立てながらゆっくりと出発した。何処へ向かうか夏衣は一言も言わずに、ただ真剣な眼差しでガラスの向こうを見つめていた。 車は駅とは違う方向へと走り出して、いつの間にか知らない舗装されていない道路を走行していた。夏衣が車を止めたのは、そんな山中にあるそこだけが自棄に整備された駐車場だった。無言のまま夏衣は車を止めると、エンジンを切って扉を開けて外に出た。徳川もそれに従って車から降り立つ。そこは異様な雰囲気が立ち込めていた。ここは一体何処なのだろうと徳川は考えながら辺りを見回した。すると夏衣が先を歩き出したので、慌ててその背中を追いかけた。馬鹿に広い駐車場には、白鳥所有の高級車以外の車はなかった。ここは白鳥の所有地なのだろうかと考えながら、夏衣に遅れないようにそろそろと付いて行く。兎角白鳥の所有地というものはこの狭い国の中で莫大な面積を占めていて、殆どは誰かに貸し付けられてそこから利益を得ているらしかった。しかしこんな風に閑散とした雰囲気を醸し出しているところを、徳川は知らない。駐車場を抜けて階段を上って、人工の池と休憩所らしきところを過ぎると、左手に灰色の無機質な建物が見えてきた。何だろうと思って徳川はそれを観察していたが、夏衣はそれに全くの興味を示さずにタイルが綺麗に並ぶ道をただ淡々と歩いていた。そのタイルの道を端まで進むと奥にはまた階段があって、夏衣は何の躊躇も無くそこを上った。上ったそこは山に囲まれているがそこだけ平地になっており、そこに灰色の石が所狭しと並べられていた。 「・・・ここは・・・」 思わず徳川がそう呟くのに、夏衣は何も言わなかった。そこまで来てやっと気がついた。静謐過ぎるそこは墓地だった。その全てを拒絶し、また許容している雰囲気のある墓地は、他のどんな場所とも違う形を持って、人間の終わりの姿を確信的に知らしめるためにそこに立っている。その間を依然夏衣は黙ったまま縫うように歩いて、やがてひとつの墓の前ですっと止まった。石には名前が刻まれていたが、徳川の知らない名前だった。隣で俯いている夏衣のほうに目をやると、夏衣はその双眸に深く悲哀を滲ませてただそのものを言わぬ石を見つめていた。見たことがなかった。夏衣がこんな風に悲しみを形にすることは少なかった。兎角徳川の前では明るく振舞っているように見えた。時折本当は何も無いのではないかと、それは徳川に錯角させる原因になった。全てが嘘で、幻想ならどんなに良いだろうと思った。止まっていた涙が、熱くなって徳川にその存在を主張してくる。泣いている場合などではない、勿論はじめから泣いている場合などではなかったのだ。徳川はひとつその冷たくも暖かい息を吸って、自身を落ち着かせた。夏衣はまだ隣で立ち尽くしたまま動かない。 「・・・これ・・・誰ですか・・・」 声から湿り気は失われて、徳川は自分が正気を取り戻しているのだと感じた。そう勘違いしているだけだったのかもしれない。鼠色に輝くそれは何も言わない、夏衣も暫くは何も言わなかった。どちらにしても過去に夏衣に関わった人間であることには違いなかった。それがどうしてこんな石に形を変えているのか、その経緯を徳川は推測することが出来なかったが、夏衣はここに自分を連れてきた。そして聞いて欲しい話があるのだと言っていた。一体自分はこれからどんな現実を見せられることになるのだろう、分からなかったがそれがどんなものであれ、現状より酷いことにはなるはずもなかった。上手くそう自分に信じさせることばかり、飽きずに繰り返している。夏衣が不意に息をひとつ吐いた。小さな尖った痛々しい肩がそれに合わせて上下した。 「俺の・・・前の、前の世話係筆頭だった」 「・・・え?」 「名前は葛西、葛西 潤(かさい じゅん)」 「・・・―――」 そう呟きながら夏衣の眉間に皺がきゅっと寄る。葛西潤。知らない、そんな名前の人間は知らない。夏衣の前の世話係筆頭は徳川の祖父だった、その前はその祖父の兄だった。徳川はそれを何度も聞かされていたから覚えている。徳川家は代々白鳥家に仕える由緒正しい血筋で、その血を重く見られて白鳥嫡男の身の回りの世話を任されている。祖父は得意げに何度もそれを話してくれた。だから間違うはずがない、そんな名前の人間は知らない、白鳥の歴史の中に居ない。徳川が困惑しているのを雰囲気だけで読み取ったのか、隣で夏衣がゆっくりと顔を上げた。 「知らないよね、知っているわけないよ。葛西は消去された人間だから」 「・・・消去・・・」 「そう、昔の話になるよ。俺が15の頃だった。徳川の祖父の兄に当たる人が、葛西を俺のところに連れて来たのは」 懐かしそうに夏衣は目を細めた。それは見ようによっては笑っているようにも見えたが、まさかそんなところで夏衣が笑みなど浮かべないことを、後から徳川は痛感することになる。知らなかった、それは隠されていたということではない。白鳥ではなかったことにされていたということだ。亡失とはそういうことだ、夏衣はそれを知っている。そして夏衣の口を割って出てくる真実も、当時は現実として認識されていたそれだ。徳川はもう一度墓石に目をやった。確かに葛西潤とその名前は読み取ることが出来る。何の因果か知らないが、その消された夏衣の世話係筆頭は、徳川と同じ名前をしていた。

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