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第5話
今から考えると、それは異例の大抜擢だった。白鳥嫡男として生まれた夏衣が15になった時、当時世話係筆頭を務めていた男が丁度60を迎える年で、高齢を理由に世話係からの引退を仄めかしていた時期でもあった。優しくて気の利く男だったが、老いを刻んだその体で夏衣のために出来ることが年々少なくなってきているのを、双方とも理解していた。それは良く晴れた春の日だった。学校から帰って自室でひとり教科書を広げていた夏衣のところに、車を駐車場に入れ終わった男はやって来て、いつものように一礼した。彼がいつもと違ったのは、自棄にその日はきっちりとした服装をしており、何処か寂しげに目蓋を伏せたところだけだった。今思えばただそれだけのことだった。勉強机の椅子に座っていた夏衣はその格好のまま、男が連れて来た新しい世話係筆頭と対峙した。男の髪が殆ど白に染まろうかとしているその後ろで、精悍とこちらを見ているその青年は、夏衣の良く知らない明るさとともにあった。今となってはたいした事ではなかったが、当時まだ中学生だった夏衣の世話係筆頭にしてはその男が随分と若く、また外界に揉まれていないあどけなさの残る容貌をしていた。一礼して顔を上げた男は、それを物珍しそうに見ている夏衣と視線を交わし、そして何にもないその空虚に向かって、柔らかく微笑んだ。男の目が嫌に透き通っていることに、夏衣はそこではじめて気が付いた。
「・・・随分、若いね」
「そうですか、これでも俺、今年で30なんですよ。良く見えないって言われますけど」
言いながら何処か照れた様子で、男は頬を二三度掻いた。隣に座っている先代が、見えないように男の背中を後ろから叩いたのが分かった。それはきっとお叱りの意味を込めて叩かれたのだろうが、男は意味がいまひとつ良く分かっていないような表情で、曖昧に微笑んだだけだった。確かにそれは夏衣を白鳥嫡男と意識している割には、余りにも砕けた喋り方だった。夏衣に対してそんな口を利くのは、屋敷の中では殆ど弟である春樹に限定されている。思えば男は春樹にも何処か似ている雰囲気を持っていたような気がする。
「・・・ふうん」
「大丈夫ですよ、俺、夏衣様の倍も生きてるんですから」
そう言ってまだあどけない顔を、更に少年のように歪めて男は笑った。男の言う何が大丈夫なのか、夏衣には良く分からずそれに何と返事をしたのか、覚えていない。気が付くといつの間にか男を連れて来た世話係筆頭は、何処かへ姿を消していた。薄暗い部屋にはいつもの自室では有り得ない妙な居心地の悪さがあり、夏衣はそれを気にすまいと机のほうに椅子を戻した。世話係と名の付く人間は、特に白鳥の使用人は立場上色々と子どもの夏衣には理解出来ないような事情があるらしく、別段変わることも珍しいことではなかった。一度も挨拶を交わしたことの無い、それでも夏衣の世話係だったらしい男が、東京支部へ出向くことになったとこの間連絡を受けた時も、夏衣にはどうしようもなく、それを一体どんな感慨とともに受け止めれば良いのか、考えあぐねているうちにそんなこと忘れてしまっていた。ノートに数式を写していると、男は夏衣の自室の障子を勝手に開けた。薄暗かった部屋の中が、俄かに中庭の光を取り込んで明るくなる。夏衣の広げているノートにも光は容赦なく差し込んで、夏衣は自分でも無意識のうちにそれに眉を顰めていた。
使用人だとか世話係だとか呼ばれる男達は、当然ではあったのだが皆夏衣より遥かに年上だった。それに敬語を使われることは、生まれた時からの習慣だったので流石に慣れていたが、何処かにある違和感を拭いきることは出来ずに、夏衣はそう呼ばれる人間達と少し距離を取って付き合っていたつもりだった。あくまで白鳥嫡男としての振る舞いが、その名前の人間達の前では喜ばれる事だって、一体何を切欠にしてなのか、もう覚えていないが若年のうちに理解した。弟の春樹はそういう周りの大人たちが言うことを聞いてくれるのを良いことに、我侭を言うこともあるらしいが、夏衣には何故かそういう振る舞いは出来なかった。だから使用人や世話係に向かって偉そうな口を利いたり、叱りつけたりすることは滅多なことでないとなかった。そうして白鳥本家に出入りする使用人達は、それ相応の教育を受けた人間で構成されており、夏衣が口を割るまでもなくそんな失態を犯すことは殆どと言って良いほどなかった。しかしどうしてなのか、夏衣はその時男の行動が酷く無礼だと感じて、顰めた眉をそのままに顔を上げた。男は勝手に開け放ったその場所に立ったまま、どうやら中庭を見ているらしかった。気が散るから今日はもう良いと言って下がって貰おうか、考えながら夏衣はひとつ溜め息を吐いた。その背中に煩いほどの視線をやっていたからだろうか、男はふと夏衣に気付いて振り返った。
「綺麗ですね」
男は先ほどと代わり映えのしないその子どもっぽい笑顔を作って、顰め面で自分のほうを見ている夏衣に、それとは全くの無関係とでも言いたいかのように、自然な動作で微笑みかけた。それに夏衣がピクリとも眉を動かさないで居るにも拘らず、特別男はそれに不満を漏らすわけでもなく、すうっと視線が外されて男の興味はまた中庭に移った。男が唐突とも思えるタイミングで漏らしたその言葉の意味、一体何が綺麗なのか、夏衣は理解出来ないまま男の視線を追いかける。
「桜、満開じゃないですか」
眩しそうに男が呟く。中庭の植えられた桜は男の言うように確かに満開で、その蕾を完全に開かせて薄桃色に視界を染めていた。言われるまで気付きもしなかった。中庭に桜が植わっていることなど、ここでいつも呼吸を繰り返しているはずの夏衣は、言われるまでそれに気付くことすら出来なかった。男はそんな夏衣の様子などお構い無しに、振り返ってそしてまた笑った。
「夏衣様の瞳と同じ色ですね」
そういえば良く笑う人だった。都合の良いように歪められた記憶の中、何かと言って笑っている印象のある人だった。そうしてそれとは対極にあるかのように、その頃夏衣は無表情で俯いてばかりで、自己主張の苦手な声の小さい少年だった。時々自分はその人みたいになりたいと思っているのかもしれないと思うことがある。何でもないことでその透き通った茶色い目を三日月の形にしていたその人のことを、どうしてなのだろう。今の夏衣が良く笑うようになったのは、その時のことが影響しているに違いなかった。しかしその少年だった夏衣は、その光や男の幼稚な笑い方を何処か軽蔑していた。男は本当に夏衣以上に閉鎖された空間で、ぬくぬくと育てられたに違いなかった。そういう無駄な煌きというものを、夏衣は兎角嫌悪した。理由などただひとつである。それが自分には齎されることのなかったものであったからだ。しかし男がそんなことを知っているはずもなく、そうして前世話係よりも男は遥かに鈍感に出来ていた。夏衣はそこも気に食わなかった。はっきりと口に出して意味にしなければ男には届かなかった。今となってみればそれはただの後悔だが、夏衣はその時確実に気付いていたのだ。その無邪気に微笑む男が、音にしないと理解出来ないということを。
「閉めてくれる、悪いけど」
「え・・・?」
「明るいと集中出来ないから」
棘の孕んだ方法で夏衣はぶっきらぼうに言い切ると、きゅっと椅子の位置を戻して机のうえに放り出したままだった銀色のシャープペンシルを握った。男は面食らった様子で、夏衣の学校指定の紺色のセーターが包む小さな背中を見ていた。男の目は余りにも澄み切っていて、纏っている雰囲気は輝かしく震えていた。それは夏衣の知らない色を含んで、陰鬱な空気を敷き詰める白鳥に決して馴染む様子のない真逆の情景だった。ややあって夏衣の開いているノートは、煩い光を排除していつもの色を取り戻した。部屋の中も薄暗くなって、ちらりと目をやると男は項垂れたまま障子をきっちりと閉めているところだった。分かれば良いのだ、夏衣は次の問題を解きながら考える。しかしこの男はどう考えても厄介そうだった。そんなことを試みたことは一度もなかったが、こんな事が続くようだったら上に変更を打診してみるのも良いかもしれない。夏衣の世話係になった時既に目の周りに皺を刻んでいた先代の男とは違い、その輝かしいものに満ち満ちているように見えた彼はまだ30歳だという。きっとこれは今後を見通した人事異動なのだろう。おそらく上は夏衣の世話係に男を据え付けるつもりなのだ、冗談ではない。夏衣は下唇を噛んで密かにそんなことを考えていた。
「すみません、余計なことをしてしまいまして・・・」
「別に、今日はもうすることないから帰って良いよ」
相変わらず自分の声は冷たく聞こえた。男が夏衣の後方で顔を上げたのが、微かな空気の変化で分かる。夏衣は敢えてそれには何の反応もせずに、懸命に目の前の問題を解いているふりをした。そうして実際、その問題は結構な難問だった。
「分かりました、それでは失礼致します」
それが葛西潤という男だった。
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