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第6話

少年は思った以上にそれらしい雰囲気を纏っていた。自身が白鳥嫡男であるということの意識がそうさせるのかもしれないが、静謐な横顔は何処にも隙がないように見えて、一種のそれは完成品としてそこにいつも存在していた。夏衣の噂は以前から多くの同僚から聞かされていたから、ある程度自分の中で想像を固めて相対したつもりだったが、暗い部屋の中興味のなさそうな目で自分を見ているその少年は、それを軽く飛び越えて葛西の目の前に鎮座していた。白鳥の本筋の人間は、揃いも揃って皆美しい容姿をしている。しかしその誰とも違う、夏衣はいわゆる別格であると誰かが言った。何故かしら夏衣にはそういう噂が付き纏っていた。一体誰が口火を切ったのか、今となってはそれを突き止めることは出来ない。そうしてそんなことに今更意味はない。兎角夏衣は白鳥の中でも浮いた存在だった。夏衣を特殊なものにしているのは、色持ちと呼ばれる白鳥特有の桃色の瞳だった。この世のどんな色にも例えられない、葛西はそれを何度か色んなものに投影させたことはあったが、それは不思議な遺伝子が関係する白鳥だけが持っている色だった。夏衣は特別その双眸の発色が、生まれつき美しくあった。それは白鳥当主を完全に凌ぐ清澄さで、夏衣の所有におさまっている色だった。 しかしそうは言っても、葛西にとって夏衣はただの少々周りの空気と馴染み難い美しさを湛えただけの少年に過ぎなかった。もしかしたら白鳥というものを、葛西は良く理解していなかったのかもしれない、しようとしなかったのかもしれない。けれども葛西はそうとしか思えなかった。そうして持ち前の鈍感さで、自身の認識を覆そうとはしなかった。夏衣が何処か世話係やその他の大人たちに一線を引いて過ごしていようが、相変わらずの無表情さで言葉少なに答えることも、葛西にとってはただの事実を超えることはなかった。 そうこうしている間に、葛西は夏衣の世話係筆頭になって2週間が過ぎようとしていた。 「それではお休みなさい、夏衣様」 「うん、有難う」 全く感謝の気持ちなど篭っていない声色で、夏衣は勉強机にしがみ付くようにして差し迫っているらしい試験勉強をしていた。それでも時間通りに眠るように促した葛西は今日の業務をそれで終了させ、立ち上がって部屋を出ると障子をきちんと閉めて外に出た。外はもう随分な暗がりに敷き詰められている。畏まっていた体をぐぐっと伸ばして、ふうと肩で一息つく。誰か先輩にでも見つかったら咎められそうな格好だった。特に白鳥本家では、整然と背筋を伸ばしていることが当然なのである。平常からきっちりしていることには勿論文句はないのだが、それにしても少しばかり厳し過ぎるような気もする。夏衣の気難しそうな性格も、もしかしたらこういう妙な決まりごとの中から生まれてしまったものなのではと勝手に想像して、だとすれば少々気の毒だなと考えながら廊下をゆったりとした動作で歩いていた。業務が終われば本家の近くにある使用人寮に帰り、本日の報告を纏めていたメールを作成送信すれば、葛西は仕事から解放される算段となっていた。身の回りの、例えば洋服などは白鳥が全て用意してくれているので、自分の着ているスーツが果たしてどれほどの値段なのか、葛西は知ることがないし、電話を一本繋いだだけで部屋に運ばれてくる料理に金を払ったこともない。そういうところが白鳥の不透明なところで、雇って貰っているというよりは仕えている立場の自分達に、明らかにはされないところでもあった。 首を回すと骨のぱきぽきという小気味良い音が鳴って、少し調子に乗って指を同様に鳴らしながら迷路のように連なる廊下を何度目か曲がったところだった。向こうから誰かが歩いてくるのが見えて、葛西は慌てて背筋を伸ばした。廊下の電気を誰かが入れ忘れたのか、そこだけが妙に暗くて人物の顔が判別し辛い。しかし調べたわけではないので憶測でしかなかったが、ここで働く殆どの人間より葛西は若くあったから、業務の終わった後の緩みきった姿勢などそれが一体誰であったにしろ見せられたものではない。いよいよ擦れ違うという時に、暗闇の中から男の顔が露になった。葛西がそれに会釈するのに、狐目の当主の世話係である斉藤はその口元を綻ばせながら少し頭を下げた。警戒しておいて良かったと、斉藤と擦れ違った後の廊下を踏みしめながら、葛西は口にも顔にも出さずにただ頭の中で考える。葛西だって白鳥本家の、しかも嫡男の世話係筆頭であることはこの屋敷の中では、相当な高位であることを意味している。しかし白鳥当主の周りを固める人間とは、やはり格が違ってくる。どう考えてもキャリアも地位も上である、斉藤はその一角を占める男だったが、自身の場所や権力というものに固執していないような、人当たりの良い男だったという印象があった。 ただ斉藤と擦れ違ってしまえば、後は家に帰って何をしようかということを、頭では半分以上考えていた。ぼんやりとしはじめた葛西は無意識に右手の骨を解して音を鳴らしていた。 「葛西さん」 不意に静寂を破って後方から自分を呼ぶ声がして、葛西は殆ど反射的に振り返った。すると行ってしまったものと思っていた斉藤らしき男の影が、何故かそこに残ってどうやらそれが葛西の名前を呼んだらしい。ぱきりと手元で骨の鳴る音がする。 「・・・何ですか」 「今からお帰りですか」 「えぇ、まぁ、はい・・・そのつもりですけど」 完全に気の抜けた声が葛西の唇から零れ落ち、仕舞ったと思った瞬間にはそれは完全に音として空中に散布されていた。しかし斉藤はそんな葛西の様子を咎めるわけでもなく、相変わらずの穏やかな口調のままだった。そもそも立場上斉藤は、葛西に敬語を使う必要などひとつもない。男の巧妙さというものは実にこういうところに如実に表れていたのだったが、葛西は中々どうしてそれに気付く器量を持っていない。 「すいませんが、ひとつ頼まれて貰えないでしょうか」 「え・・・あぁ、良いですよ。何ですか」 「夏衣様に、当主様が呼んでいらっしゃるので寝室まで参られるようにと仰って貰って宜しいでしょうか」 言いながら斉藤が目を伏せる。お休みなさいと言って先刻別れたばかりの、夏衣の整然とした横顔が思い出される。夏衣のことであるならば、自分が赴くのは当然だった。 「分かりました、今から戻って伝えておきます」 葛西はそれに景気良く返事をすると、得意の無邪気な笑顔を見せて、元来た廊下を戻り始めた。その場に残された斉藤は、それを凪のような静寂を湛えた目で見送っていた。廊下をゆっくりと戻りながら、葛西は斉藤の言葉を反芻しながらふと考えた。白鳥の当主に当たる男は夏衣の祖父であるが、しかし一体こんな時間に夏衣に何の用があるというのだろう。試験前で勉強しているらしかったその背中を思い出しながら、急ぎでなければ明日にでもすれば良いものを、思ったが勿論葛西の立場ではそんな風に意見することなど出来るわけがない。だからそれは本当に、葛西が想像するだけで終わる。葛西は夏衣の世話係筆頭を任されてはいるが、当主に謁見すら満足に許されていない。それほどに白鳥の中では当主というその存在が、他のどんな人間とも線引きされた位置に据えられている。血の繋がっている家族であるにも拘らず、夏衣や春樹ですら平常から顔を合わせ、挨拶を交わすような間柄でもないらしい。不思議にしか聞こえないそれが、そこでは当然として成り立っているから、余計奇怪であった。 そんなことに気を回している間に、先刻退出したばかりの夏衣の部屋の前まで辿り着いた。廊下に膝を突き、襖に手をかける。しかしまだ開けない。 「失礼致します、夏衣様」 「誰」 冷たい返答である。声質を見分けることくらいしてくれても良いものをなどと思いながら、それも無理な要求かと半分では考えている。しかしここには息衝いている人間が余りにも多過ぎる。それが夏衣を取り巻いている、環境という名前のものだった。葛西もその環境の一環に過ぎないことを分かっている。言いたい言葉を殆ど飲み込むようにして、葛西は襖に手をかけたまま視線を落とした。 「葛西です、開けても宜しいですか」 「・・・良いよ」 ややあって夏衣がそう反応し、ようやく葛西はその襖を開けることを許される。失礼致しますと低い声でもう一度呟いて襖を音も無く開くと、その奥で夏衣は机の上に肘を突いて、銀色のシャープペンシルを握っているという先ほど別れたままの格好だった。

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