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第7話

襖を半分ほど開いて、葛西は中に入ろうかどうか考えた。依然夏衣は机に覆い被さるような格好のままで、シャープペンシルを熱心に動かしているようだった。斉藤のあの言い方から考えてみても夏衣に伝えさえすればそれで良さそうだから、態々夏衣の部屋に踏み込む必要はないかと思いながら、その全くこちらに興味を示す様子のない狭い肩幅を見ていた。白鳥本家の人間は、家の中で普段着のように着物を身に纏っていることが多かった。それは白鳥の長い歴史を暗に物語っているかのように染み付いた習慣のうちのひとつで、夏衣にしてみても屋敷の中にいる間、制服以外の洋服を着ていることは、殆どと言って良いほどなかった。それに取り分け、夏衣にはとてもその淡い色の着物が良く似合っていた。気だるそうにそれに腕を通す夏衣の15とはとても思えない雰囲気を、それは時々曖昧に葛西に想起させた。人間の視線を集中させる理由など、そこに探す必要などなく殆ど無造作に転がって見えた。夏衣にはそういうところが少しあり、葛西もそれには首を捻るしかないところだった。夏衣は確かに15歳の中学生に違いない筈なのに、その振る舞いや仕草の中に15の少年にとっては、持て余してしまうほどの艶を含んでいた。葛西は30になる歳まで、女を全く知らないで生きてきたわけではない。その昔は派手に遊んでいた事だってあったが、夏衣のそれはその記憶に残る女達の誰とも違う、しかし確かな誤魔化しきれない色香だった。葛西はそれを夏衣の中に見つけるたびに、首を傾げることになったが、夏衣ほど洗練された環境に置かれているのならば、早熟であることに特別他の理由など必要ないような気がしていたのも事実だった。 その時半分ほど開いた襖の間から見えた夏衣の細く白い首も、この暗がりに何処か光彩を放ってそこにぼんやりと在った。時々それは葛西の中にするりと潜り込んで来て、内側から有りもしないはずの欲情を撫でるのだった。夏衣は確かに子どもで、子どもには違いなかったのに、それには決して付随しないはずの妙な艶っぽさを、おそらくは無駄に備えていた。それを手に入れる過程で学ばれるだろう隠す術を、どうしてなのか習得しないまま、無意識にそれを振り撒いているような、そんな危うさを持った子どもだった。しかし確かにその時目の前で背中を丸めているのは、葛西にとってもおそらく他の大人たちにとっても、たった15歳の無力な子どもだったのだ。いつの間にか沸いて出た生唾を飲み込んで、葛西は何を考えているのだと自分を叱責するために、一度強く首を振ってその愚からしい想像から逃れようとしていた。ただの子どもに、しかも白鳥嫡男である夏衣に、そんな邪念を抱くことなど許されるはずもなく、そんな自分もまた葛西は許せそうもなかった。そして板の間に指を揃えるとそこに額を押し付けるように、決められたやり方で深々と頭を下げた。 「当主様がお呼びで御座います」 男の名前を葛西は知らない。誰もが男の名前を呼ばないので、分かりようもない。きっと他の使用人達だって、男の名前を知っている人間は少ないか、もしかしたら居ないのかもしれない。どうしてそれが隠されているのか、もしくは忘れ去られることになったのか、葛西には良く分からなかったが、言葉にするのも恐れ多い、それは白鳥の最高峰を暗に意味している。それに最早男に名前は必要ないのかもしれない。ややあって顔を上げる。薄暗い部屋の中、見れば夏衣は手を止めて椅子の上に座ったままその背筋を不自然な形に伸ばしていた。おそらくは葛西の声が聞こえ、その意味も飲み込めたのだろう。しかし夏衣がそれにひとつも返事をしないというのは、実に珍しいことであった。気にはなったが、態々それを促すのは憚られる。葛西はそれを確認すると、失礼致しますとまた低い声で続けて立ち上がった。開けっ放しだった襖を閉めようと手を伸ばして、目の端に飛び込んだのは夏衣の横顔だった。榛色の髪の毛に半分以上隠されている、その無愛想でありながら何処か成熟し切った子どもは、その真っ白い頬をあからさまに引き攣らせて何かを見ていた。揺れるその美しい桃色の瞳は、見開かれて確実に何かを捉えているはずなのに、まるで何も見えていないかのような濡れ方をしていた。 「・・・夏衣様?」 余りにもそれが異様な光景に思えたので、葛西は自分でも殆ど無意識のまま気付いたらそう声をかけていた。するとそれに弾かれたように俊敏な動作で夏衣が振り返って、直接開けた襖の奥にいる葛西を捕える。葛西はそれに首を少し傾げて見せた。どうかしましたかと言葉にしないで言っているつもりだった。しかし夏衣は何も言わなかった。薄い唇を少しだけ開いて、そこから言葉が出てくることはなかった。少し注意してみれば、その唇が小刻みに震えているのをもしかしたら知ることが出来たのかもしれない。それがその時葛西には、緊張の類に見えた。他にどう考えることが出来たのだろう。血の繋がった祖父といえども、男はそれ以前にそれ以上に白鳥なのだ。もしかしたら夏衣も他の使用人や分家の人間と変わらぬ尺度で、その祖父のことを畏敬と同時に脅威の念を抱いて見ていたのかもしれない。葛西に思えたのはそのことだけだった。そんな普通ではない肉親関係に、自分の持っている常識などが当て嵌まる筈が無いことだって分かっていた。普段は何事にも余り動じることがない夏衣が、その時あからさまにそれを表情に晒したので、葛西の目にも留まることになった。ただそれだけのことだった。葛西は依然頬を引き攣らせたままの夏衣に向かって、他に仕様が無く微笑んで見せた。 「大丈夫ですよ」 思えば、軽率な言葉を掛けたものだ。 「大丈夫ですよ、他の人間なら兎も角、夏衣様は当主様のお孫さんじゃぁないですか」 「・・・―――」 夏衣の眉がピクリと動いて、それは瞬く内に険しい顔になった。しかし葛西は気付かない。気付かないまま、この白鳥の屋敷の中では取り分け浮いた明るい声で続ける。 「だから・・・―――」 その次の言葉まで、しっかり考えていたつもりだったのに、葛西はそれ以上何も言えなかった。夏衣はその薄暗い部屋で虹彩を鈍らせながら、くつくつと笑い声を立てていた。一体自分の何が可笑しかったのか、葛西は自分でも良く分からなかったが、夏衣が楽しそうにしているのでそんなことを考えるのは野暮なような気がして、いつの間にか宙を彷徨っていた腕を下ろした。夏衣が笑っているところを、そういえば見たことがなかった。往々にして夏衣は無表情で、その美しいだけの顔に何か感情の類が刻まれるのを見たことがなかった。だからこそかもしれない、葛西はそれを半ば安堵しながら眺めていた。夏衣が顔を上げるまでは、葛西だってそう思っていた。確かにその時夏衣の顔には、いつもの無表情を超えた激しい感情が浮き彫りになっていた。それは誰に向けられたものなのかはっきりとしない、漠然とした怒りだった。怒りだったように思う。 「出てけよ」 唇は笑っているのに、確かな三日月を模っているのに、夏衣のそれは全くの歓喜を孕んでいなかった。らしくもなく上擦った変声期前の高い声で、それでも呻くように聞こえたのは一体何故なのだろう。ふたりの間に生まれた圧倒的差異の意味を、他の誰が説明出来たというのだろう。 「・・・は・・・?」 「出てけよ、出てけ!お前なんか、お前なんか・・・―――!」 夏衣が勉強机の椅子をがたがたいわせながら、似つかわしくない自棄に乱暴な動作で立ち上がった。思わず葛西はその喧嘩など絶対にしたことがないだろう、棒のような腕を持った子ども相手に身構える。しかし夏衣はその振り上げた手を、葛西にぶつけることはしなかった。まるでそんなことが許されていないかのように、それはぴたりと空中で止まって動かなくなった。 「顔も見たくない!」 言われるまま葛西は、足をずずっと後ろに後退させた。普段の物静かな様子から比べても明らかなように、夏衣が相当に憤慨しているのは分かった。けれど自分の発した言葉の一体何が、夏衣の逆鱗に触れたのか。葛西はそれを知ることが出来なかった。葛西の足が完全に夏衣の部屋から出てしまうと、夏衣は振り上げたその手をどうすることも出来ずに、結局葛西の目の前で乱暴に襖を閉めることでその暴力性を発散させた。それは余りにも白々しいほど、露骨な拒絶だった。目の前で隙間なく閉じられた襖を見ながら考える。確かにこの白鳥の中には、常識では中々考え辛いことが、往々に蔓延っていることが少なくなかった。夏衣と当主の関係がどうなるものなのか、葛西は知ることは出来ないが、もしかしたら自分が考えているような安易な家族像を、ふたりは結んでいないのかもしれない。そういえば夏衣の両親は一体何処に居るのだろう。白鳥に違いないはずのそのふたりの存在を、葛西は屋敷の中で一度も見たことがないし、話にも聞いたことがない。知らなかった、そんな当たり前のことを。自分はそのことを今の今まで、考えたことすらなかったのだ。 耳を澄ませばその襖の向こう側から微かに、すすり泣くような声が聞こえた。それは一体、誰の悲しみの形だったのだろう。葛西はそれが完全に止まって消えてなくなるまで、そこで俯いたまま黙って聞いていた。

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