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第8話

それは仕方のないことだった。誰も葛西に教えてくれなかったから、葛西がそれを知ることが出来ないということは、仕方のないことだった。冷静な頭で思い起こせば、何と幼稚な八つ当たりをしてしまったのか、一日経てばそれは激昂から簡単に後悔に変わっていた。夏衣は腫れぼったい目を触りながら、起き出して布団の上にするりと寝間着代わりに着ている浴衣を脱いだ。箪笥からアイロンのかかった制服のカッターを取り出し、それを羽織る。ボタンを下から閉めていると、廊下の板間が僅かに軋むような音が聞こえた。葛西だ、夏衣は俯いたまま思った。そろそろ葛西の来る時間帯であることは分かっていたが、昨日の今日で一体どんな顔をすれば良いのか分からなかった。膝を折って指を突いて、葛西は本当にマニュアル通りの挨拶の仕方をする割に、本当に形だけが整っている中が空っぽな人間だった。一旦こちらが興味を示すと自棄に口調がフランクになり、まるで近所の大学生と話しているような気がすることがある。透き通った茶色い目に沢山光を集めて、葛西が眩しそうに目を細めるたびにそれが目の端から零れているような気がする。あの男は一体何処の出身なのか、白鳥の役人らしからぬ妙な存在感のある男だった。しかしいずれ葛西もこの毒ガスみたいな空気を吸い続けると、きっとその目の色を濁らせて余計なことなど言えなくなる。それを自分はただ待てば良いのだ、途方もないことのように思えたそれが、何だか今日に限って明日明後日の近い未来に感じる。悲しみはそういうところにすら付いて回って、時々夏衣に思い出させようと先の尖ったもので、ちくりちくりと突くのだ、夏衣のまだ正常な部分を。 「失礼致します」 やはり葛西の声だった。夏衣はボタンが全部留まっていることを確認すると、急いでスラックスに足を突っ込んで、ベルトを回した。 「どうぞ」 素っ気無くそれに答えると、ゆっくり襖は開かれた。朝の鬱陶しいほどの光がこの部屋に葛西とともに雪崩れ込んでくる。そんな気がして夏衣はそれに背を向けたまま、ベルトを穴に通して止めた。開口一番葛西は一体自分に何を言うつもりなのか、夏衣は耳を欹ててそれには全く気をやっていないふりをした。葛西は夏衣の部屋に入ってくるわけでもなく、ただ中途半端に開けた襖の向こうで黙って座っているようだった。だったら開ける意味など何処にもないことを、どうして男は悟ろうとしないのか。やはりどうも葛西の存在自体が夏衣の肌と合わないことは、残念ながら事実であったらしい。葛西と居ると妙に苛々させられている。学校指定のセーターを引っ張り出し、それを被った。形を整えていると、ふと背後に気配を感じて振り返ると葛西が立っていた。見上げる夏衣と目を合わせて、葛西はきゅっとその目を細めた。しかし今日はその目尻から何も零れなかった。暫くぶりに光に透かして見た葛西の瞳は、はじめて会ったときより確実に黒が入り混じっていた。葛西はすたすたと夏衣の部屋に入ってきて、勝手に箪笥の中からネクタイを取り出すと、夏衣の足元に膝を突いた。世話係とはこうして身の回りのことをそれこそ隈なくやってくれる存在らしいが、はっきり言って夏衣にとってそんな連中は煩わしいだけだった。だから必要以上のことを彼らに要求せず、だから距離があると言われてきた。求めてもそれが得られないことよりは、夏衣にとってはそのほうが数倍穏やかだった。どうしてそれを皆が分かってくれなかったのか、それと殆ど同等のレベルで夏衣は理解出来ない。しかし昨日の今日だったので、何となくそれを断るのは気が引けて夏衣はそっと自分で襟だけ立てた。葛西がそろそろと伺うような動作でそれを首に巻きつける。 「昨夜は、すみませんでした」 しゅるしゅると音を立てるネクタイは、葛西の手の中で別の生き物のように見えた。夏衣はそれに黙っていた。何か言う必要性など、はじめから自分にはないことを葛西が思い知れば良いと思っていた。しかし葛西は夏衣のそんな心情などまるで察する気配のなく、へらりと顔をだらりと綻ばせた後、きゅっと夏衣のネクタイを締め上げて美しい形に整えた。 「俺、凄く不謹慎なこと言いましたよね」 知っているのか、夏衣は確かめるつもりで葛西の顔をじっと見つめたが、葛西はそれにおろおろと視線を泳がせて夏衣の目を全く見ようとしない。 「すみません、俺何も知らないで」 「知ってるの」 「え?」 ぱっと葛西が顔を上げる。内容は良く分かっていないようだったが、夏衣が声をかけてくれたことに対する微量な歓喜がそこには含まれており、何故だか夏衣はそれに嫌悪感しか抱かなかった。眉を顰めると、葛西はこちらの機嫌を伺うようにまたへらりと口元を歪ませた。 「知ってるの、何を」 「・・・え・・・」 「お前は俺の何を知ってるの」 朝の暖かい空気を裂くように、それはきんと響いた。知らない、葛西は知らない。何も知らない。夏衣の中でそう結論は集約し、もう次の瞬間それに興味は失っていた。葛西が慌てたようにその濁りかけた目を、忙しなく動かし始める。男の反応を待ってやるほど、夏衣は優しく出来ていない。昨日用意しておいた教科書とノートの入った鞄を持ち上げると、その重みは急に失われる。後ろから葛西がそれに手を伸ばしているところだった。断わるのも面倒だから夏衣はそれをそのまま葛西に渡した。 「夏衣様・・・」 「出るよ、閉めて」 無愛想に言い切ると、葛西をそこに残して夏衣は部屋を後にした。電気を消して襖を閉めて、ばたばたと忙しない動作で葛西が後を追いかけてくるのが分かった。 「待って下さい、夏衣様」 「教えて下さい、俺に」 ぴたりと足が止まった。何故動かないのか夏衣にも良く分からなかったが、そのうちに葛西に追いつかれてしまって、最後は耳元で声が響いていた。 「何でも仰ってください、俺に。お願いします」 何と傲慢な男だろうと殆ど泣き声染みていた葛西のそれを聞きながら、夏衣はぼんやり考えていた。自分は他のその他大勢とは、まるで全く違う人間であるかのような口ぶりだ。自分だけが、自分こそが、まるで特別でもあるかのような、だとすればそれは酷い思い違いだ。何を根拠にそんな仮想を生み出しているのか、全く理解が出来ない、したいとも思わない。耳障りな声は全部ノイズだ。早くその口を噤めば良いのに、考えながら夏衣はまた昨夜と同様苛々し始めていた。何も出来ない使用人風情であるという認識が、どうも葛西には欠けているのではないか。教えてくれと言った葛西に、自分が言えるのは僅かにその程度のことだと夏衣は思った。他のことなど恐ろしくて言葉に出来そうも無い。その無意味な思考回路で、どんな風に理解されるか分かったものではない。歪んだ唇をぺろりと舐めて湿らすと、夏衣は自身を落ち着かせるために一呼吸置いた。兎も角一度ははっきりさせておくべきだった。こういうことに夏衣は不慣れだった。出来れば余り刺激せずに曖昧にしておきたかったが、この苛々が今後も続くことを考えると、ここで一度きつく言っておいても損はないだろう。全く朝からこんなことで頭を使わなければならないなんて、憂鬱極まりない。考えながら振り返ると、葛西は思っていたよりも夏衣のすぐ後ろに立っていた。急に振り返った夏衣に吃驚したのか、葛西の頬が妙に引き攣った。 「話すことなんかないよ」 「でも・・・」 「大体、お前に何が出来るの、何も出来ないでしょう」 「・・・―――」 それこそが真実で、それだけが真実だと思った。 「だから黙っててよ」

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