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第9話

「知ってるの、何を」 それは他のどんな言葉よりもはっきりとした、拒絶の証明だった。しかし葛西はその時のことで、後に酷い後悔に襲われることになる。知らないでは済まされないその圧倒的現実を、葛西が目の当たりにすることになったのは、それから実に3ヶ月後のことであった。 その日も業務が終わってすぐのことだった。最近の夏衣はやはり以前のように無愛想のままで、時折その言動の片隅に壁のようなものを鈍感だった葛西も見つけるようになっていた。しかし夏衣にその本質を尋ねることは憚られていた。これ以上その距離を感じさせる話し方をされるのは嫌だった。どうすればそれが縮むのだろうと考えながら、いつものように一礼する。今日も夏衣の目はこちらを見ない。襖を閉めて殆ど溜め息を吐きながら立ち上がった。今日も長い一日だった。明日も長い一日だろう。考えながら回した首の骨が、ぱきりと小気味良い音を立てた。するとその時葛西が先ほど閉めたばかりの後ろの襖が微量の音を立てて開き、中から夏衣が顔を覗かせた。この暗がりで葛西のことは見えていないのか、夏衣は自棄に曇った表情をしていた。気になって声を掛けようとして、また躊躇する。最近はこんなことばかりだ。きつく撥ねつけられたらどうしようと、そればかり考えている臆病な思考。上げた手をどうすることも出来ずに、葛西はそれで夏衣を呼ぶ代わりに頭を掻いた。夏衣は葛西など見えていないかのように、らしくない自棄に忙しない動作ですっと襖を閉めると、薄紫色の着物を翻して廊下を逆方向に歩いて行った。こんな夜中に一体何処に行くつもりなのだろうと思ったが、葛西にそれを確かめるほどの勇気はなく、夏衣が足早に廊下を曲がって消えていくのをただぼんやりと見ていることしか出来なかった。 そういえば前にも何度かこんなことはあったような気がしたが、それはいつのことで何の用事だったのだろう。葛西はひとり首を傾げながら、帰路に着くために夏衣が消えた方とは反対方向に伸びる廊下をゆっくりと進んだ。何度か角を曲がった時に、ぼんやりと記憶が再生されるような気がして葛西は顔を上げた。あれはいつだったか、一体どうして夏衣はあんな顔をしていたのか。 「葛西さん」 不意に後ろからそう誰かに呼びかけられて、葛西は思わずびくりとその背中を震わせた。何も疚しいことがあるわけでもないのに、恐る恐る振り返ったその先で声の主である斉藤がいつもの笑みを貼り付けて立っていた。斉藤とは会わない時はぱったり会わないのに、会う時は頻繁に顔を合わせる。それに頭を下げると斉藤はその高過ぎるような声で、今晩はと音にした。そういえばその時は斉藤にこんな風に声をかけられたような覚えがないわけではない。確か頼まれごとをしたような気がしたが、一体何だったか、眉を顰めて腕を組み考え込んでいる葛西を見ながら、斉藤は細く目を開いた。 「何か考え事ですか」 「え・・・えぇ・・・まぁ、はい。色々と・・・」 「そうですか」 曖昧に笑いながら返事をする葛西をいつもの微笑を少しも崩すことなく、斉藤は見守っていたが、思い出したように両手を胸の位置まで上げた。そこではじめて葛西もそれを視界に入れたのだったが、斉藤はどうやら誰かの夕食を運んでいるところだった。朱塗りの豪華なお盆の上に、それらしきものが乗っているのが見える。こんな時間に夕食だなんて、随分遅いなと葛西はそれを見ながら暢気に考えていた。 「考え事の最中申し訳ないんですけど、これ運ぶのを手伝って貰えませんか」 「え、あ、良いですよ。何処までですか」 「すいませんね、私は他にやることが残っていますので、頼みますよ」 頼まれたのはこれだったのか、斉藤からそれを受け取りながらぼんやりと葛西は考える。それにしても当主のお付だとこの時間まで働いているのか。更に斉藤はまだ仕事が残っていると言う。偉くなるのも考えものだなと悠長に思いながら、葛西ははっとして斉藤を見やった。 「・・・す、すいません・・・斉藤さん・・・これ、何処まで・・・」 「当主様の寝室まで、お願いします」 さぁっと血の気が引くのが分かった。葛西は白鳥にずっと仕えてはいたが、未だに白鳥当主と呼ばれる男の存在をその目で確認したことがない。もしかしたらそんな人間は何処にも居ないのかもしれない、なんてことまで考えてしまう。白鳥の巨大な屋敷の一番奥にその男は住んでいるらしかったが、そこ等一帯に立ち入ることを葛西のようなただの使用人は禁じられている。出入りが許されているのは斉藤のような白鳥のお付と、それから白鳥の本家の人間だけだった。そこまで考えて、ふと葛西は思い出した。そういえば以前何度か、夏衣は夜中に当主から呼び出されていることがあった。こんな風に斉藤に捕まえられて言付けを頼むように言われたこともあったし、葛西がまだ夏衣の部屋に居る時に斉藤がやって来た時もあった。今日もそれだったのだろうか。それにしても随分夏衣の顔色が思わしくなかったように見えたが、もしかしたら少し体調でも悪いのかもしれない。明日の朝はそれとなく調子を伺ってみようと、渡されたお盆の重みに耐える腕に力を入れながら考えていた。 「それではお願いしますね」 いつものようににこりと笑うと斉藤はくるりと踵を返して、やや早足で廊下を音もなく行ってしまおうとした。そのことに頭を支配されていた葛西は、不意にそれで現実に引き戻され、夜中であるにも拘らず思わず斉藤を結構な大声で呼び止めていた。 「斉藤さん!」 それに斉藤が気付いて振り返る。 「どうされました?」 「お、俺、やっぱ無理です、ど、どう考えても・・・当主様と顔なんて合わせられません・・・」 格好悪く声は震えていた。そもそも大きな立場の問題がある。夏衣にだって時折面会と証して色んな人物が、それは分家だったり字継ぎだったり御三家だったりしたが、会いに来ることがあった。まだ中学生の夏衣が彼らと一体どうなる話をしていたのか、葛西はそれを聞くことを許される時もあれば、退出を促されることもあった。それと殆ど同様に訪問者の地位のレベルに合わせて、夏衣と謁見出来たりまた出来なかったりした。そういう意味で勿論、葛西は白鳥当主と差し向かいで相対せるような立場ではないことは明らかだった。 「あぁ、大丈夫ですよ。側に世話係が居ますから、彼に渡してくだされば結構です」 5メートルほど向こうに立ったまましれっと斉藤はそれだけ言うと、まだ何か言いたそうな葛西に手を振って廊下を曲がって行ってしまった。本当にやることが残っているのだろう。側に世話係か、当主は夏衣や他の本筋の人間とは比べ物にならに程の大所帯で生きている。今は夏衣についている自分だって、大きく見れば白鳥当主に仕えていることになっている。その人に一度も会ったことがないなんて、やはり可笑しいのだろうか。考えながらそこで駄々を捏ねていても仕方ないので、葛西は歩みを進めた。何処まで立ち入ることを許されるのか分からないし、また斉藤が許されているのか知らないが、さっさとこんな怖い仕事は終わらせて返って眠ることだけを考えよう、葛西は思って板の間を踏み締めるようにして未踏の屋敷の奥を目指した。どう考えても、白鳥当主の存在は脅威の一言だった。一体幾つの時だったのか、父だったり母だったりしたひとに、葛西は幼少の心で受け止め切れない恐怖感を植えつけられた。もしかしたらそういうファンタジーを抱いていているだけなのかもしれない、兎角記憶は曖昧に出来ているので何とも言えない。何がそうなのか、葛西はそれに上手く説明出来ないが、兎も角それは言葉や形にはし難い畏怖すべきひとであり、場所だった。思えば夏衣があの時頬を引き攣らせたのだって、同じような意味を孕んでいたのではないか。だとすれば分かるのに、自分もそれを理解することが出来るのに、考えながら口惜しい気がして下唇を噛む。あの人は何を拒絶しているのか、何を否定しているのか、未だに良く分からない。分からないのは白鳥当主のことだけではなく、葛西にとっては夏衣の振る舞いも同じことだった。 いつの間にか見知らぬ場所まで来ていた葛西は、不意に不安になって廊下の真ん中で立ち止まってついと中庭を見やった。中庭だけは依然として葛西の知っている様相を微量に変えながらもまだ留まっている。同じ本家でも奥に入れば入るほど、無駄なものがどんどん取り払われているような、そんな静寂が肌を突いてそれは痛いほどだった。

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