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第10話

奥へ入れば入るほど、人気がどんどんなくなっていき、既に屋敷の中のはずなのに屋敷の門のようなものが見えてくる。その側で番をしているらしい男に夕食が乗ったお盆を渡そうとすると、この中だと言われた。仕方なく門の奥に進んだけれど、これ以上踏み込むのが段々怖くなっていた葛西は、いよいよ夕食など放り出して走って逃げてしまいたかった。人工の川が屋敷の中を流れている。これではもうここが家の外なのか中なのか、良く分からなくてくらくらする。その上に架かった落ち着いた朱色をしている橋を渡って、その奥がようやく白鳥当主の寝室らしかった。表から入ってここまで来るのに、かなり時間がかかるはずだ、考えながら時計を見ようと体を捻ると、持っているお盆の上を夕食が滑って慌てて態勢を元に戻す。引っくり返しでもしたらきっと、自分の首の皮は繋がっていないだろう。考えながら自らの想像に体をぶるりと震わせ、葛西はお盆を握り直した。中にさらに世話係がいると、先ほど門の近くにいた男は言っていたが、その世話係が一体何処に居るのか、これ以上中に入って良いものなのか、殆ど恐々葛西が歩みを進めている時だった。何処かで誰かの声が聞こえた。ふと立ち止まって耳を澄ませてみる。今まで人の気配のなかったその屋敷の中に、誰か居るのだと思うと妙に心強くなり、その声のするほうへとそろそろと足を進める。その人が世話係でなくとも構わなかった。兎も角誰でも良いから早く出会って、夕食を渡すよう頼んで自分は早くここから撤退したかった。さらさらと人工の川の流れる音とともに、それが何処か暗闇に反芻する。 (・・・あれ・・・) ふと葛西は足を止めた。もう一度じっと耳を凝らしてみる。確かにそれは人の声だったが、どうも葛西の思っていたのとは違う様相を秘めている。それは甲高い喘ぎ声のように聞こえた。途端羞恥にかっと顔が赤く染まり、葛西はくるりと方向転換し元来た道を戻りはじめた。はじめは誰かの話し声が途切れ途切れに聞こえているものだと思った。しかし、よくよくそれに耳を澄ませてみると、それはどう考えても女の嬌声に違いなかった。ここにあるのが白鳥当主の寝室であるということを、何処か失念してしまっていた。どちらにしろそんな場所に踏み込もうものなら、首の皮がどうのこうのと言っている場合ではなさそうである。斉藤には悪いが、何かしらの方法で彼を見つけ出してやっぱり無理ですと断りを入れるべきだろう。それもこれもこんなものを受け取ってしまったのが、そもそも間違いだった。自分にでも出来そうだと一時思ったことを、そしてとことん後悔することになる。 (・・・女のひと呼んでるなら何で夕食なんて・・・一緒に食べるとか・・・?) 首を傾げながら、急いで角を曲がる。中庭が右手に見えてほっとしたが、葛西の足は何故かそこでぴたりと止まる。どちらから来たのか、分からなくなってしまったのだ。はっとして青ざめてきょろきょろと辺りを見回すが、相変わらず辺りは閑散としており人の気配がない。流石にこの時間だ、いつもはいる世話係も側近も自分の宿舎に帰っている頃合だろうか。葛西は慌てたまま、覚束無い足で取り敢えず右手の道をそろそろと進んだ。代わり映えのしない景色がその奥まで続いている。 「・・・―――ァ」 不意に聞こえるその艶めかしい声が、ざらりとした手のひらで葛西の背筋を撫でる。それに首を竦めながら、葛西はその頃になると殆ど小走りで屋敷の中をうろうろとしていた。勿論白鳥の屋敷内で走ることなど禁じられている。そんな小学生でも分かるようなルールが、その時葛西の頭の中からはすっぽりと抜けていた。 「・・・もう何だよ・・・ホント何なんだよ・・・」 涙声で一体誰に言っているのか自分でも良く分からないまま、そう呟きながら廊下を進む。左手に曲がって、また十字路に出くわした。ここから出られなくなったらどうしよう、葛西はいよいよそんな頭の悪い想像に侵食されはじめた。一旦頭を冷やそうと律儀にお盆を持ったまま、側にあった柱に体を預けた。ふうと息を吐くと辺りの静寂が怖いほど、葛西を責め立てているような気がしてそれに身震いする。 「・・・ぁ・・・ン―――」 「は・・・―――」 じっとしているとその途切れ途切れの嬌声が自棄に大きく聞こえて、葛西はそれを自らの中から追い出すためにひとつ強めに頭を振った。ここで朝を迎えれば出勤してきた誰かに見つけて貰えるかもしれないけれど、怒られるのは目に見えている。それにこの歳でこんなところで迷子になるなんて事態、出来れば避けたい。そんなことで謹慎になりでもしたら、夏衣に笑われるに決まっている。考えながら葛西は天井を仰いだ。笑ってでもくれれば良いが、きっとあのひとは興味のなさそうな目でこちらに一瞥くれるだけだろう。別段世話係は葛西でなくても良いのだ、きっと夏衣も同じように思っている。それは虚しい想像だったが、確かな事実を照らし返しているように思えてならなかった。 「はぁ・・・しかしどっちなんだか・・・」 もう何十分もここをぐるぐる回っているような、そんな錯覚にすら簡単に陥ってそれは単純に葛西の精神力を削り取っていった。斉藤及び白鳥の世話係は皆、この複雑怪奇な構造をしている屋敷のつくりを完璧に理解しているのだろうか。だとすれば自分は一生白鳥当主の世話係になることは出来ないなと、そんなことで葛西は自ら出世を断ち切っていた。そういう自分に辟易しながら首を振って、頼りにならない視覚的目標を見つけながらそろりそろりと歩みを進める。依然嬌声から遠ざかる気配のない自分が、今一体どの辺りの位置に居るのか、是非上から眺めたいと思いながら叶わぬそれに唇を噛む。もしかしてこれは近付いていっていないかと、不安が頭を猛スピードで過ぎって行く。そんなわけないとどうも弱気になる心内に訴えかけて、葛西は板間を踏み締める。 「あぁ、・・・ン・・・」 (・・・出口はどっちなんだ・・・) 「・・・あぁ・・・―――」 (・・・聞こえない、聞こえない、聞こえてないですよ、白鳥様、まさか俺が聞いてるわけないじゃないですか、そういう趣味とか全くないですしー・・・大体聞いているだけなんて虚しいじゃないですか、うん、だから聞いてません。っていうか聞こえてないしね、その前に) 「・・・おとうさ、ま・・・―――!」 ガシャンと何かが落ちたのが見えた。見れば廊下の上に、持たされた夕食がひっくり返った実に無残な形で落ちているのが見えた。ここまでしっかり握っていたのに、葛西は手を滑らせて落としてしまった。味噌汁らしきものが板間を溝に沿って滑っていく。それをじっと見ていた。お盆を取り落とした手ががたがたと震えている。これだけ震顫が酷いと確かにお盆程度の重さでも、支えているのは困難だろう。だから落とした、簡単なことだ。頭は真っ白になっていた。その頭が考えていたのは、目の前のそんな混ざった色の事実だった。まだ変声期前の女の子のように高いそれが、呼んだのは白鳥の名前、白鳥の名前だった。知っている。震顫を握り潰しながら、葛西は喉がからからに渇いているのを自覚した。白鳥を当主のことをそんな風に呼ぶのは、この屋敷の中の本筋の人間だけである。それが一体どういうことなのか、葛西は分からずに誰も見ていないそこで必死に頭を振り続けた。そんなわけがない、そんなわけがない、そんなわけがあっていいはずがない。確かに白鳥の環境は他とは異なっているかもしれない、異なっているなんていう簡単な言葉で、片付けられるものではないかもしれない。だけどこんなことは、考える葛西の脳裏に知っているのかと問うた夏衣の顔が不意に想起された。その時自分は何と言ったのか、今日去り際に見た夏衣のその青白い横顔を、一体何だと思っていたのか。呻き声が半開きになった口から勝手に漏れ出し、葛西はいよいよ立っていられなくなってその場に膝を突いて崩れ落ちた。 無愛想な子どもだと思っていた。ひとつも笑わないで何にも興味を示さないで、その癖拒絶だけは一人前にしてみせる。夏衣があの手で、あの手で払っていたのは誰だったのか、何だったのか。葛西は知らなかった、無知は罪だ。無知はこんなにも大罪だ。夏衣の曇った顔を、引き攣った顔を、一体何だと勝手に理解して知っているふりをして大丈夫だ何て軽率な言葉で肩を叩いて、子どもだからと思って笑ってそれを夏衣の目は、一体どんな風に映していたのだろうか。怖くてそれを知る術がないことにほっとしている。呼吸器官が急に狭まったように、突然酸素が足りなくなる脳内に、自棄に嬌声がガンガンと響いてまるで葛西を責めているようだった。ぎゅっと目を瞑ったら、夏衣の美しい無表情の横顔が目蓋の奥に浮かび上がる。あの子の首筋や目元に広がる、少年らしからぬ妖艶の理由をこんな形で知ることになるとは思っていなかった。それは確実に夏衣を侵食している、男が残した爪痕だったのに。夏衣の中に住んでいる寂寞は、そんな形でしか外に向けられなかったのに。それすら気付いてやれなかったなんて。自分が今までしてきたことは、一体何だったのだろう。この少年のための人生だと教えられたことは、一体何だったのだろう。 聞こえたのは嬌声なんかではない。―――悲鳴だ。

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